石 川 県 立 図 書 館 報
第263号(平成10年7月) (4)

『加能史料』 戦国編
刊行はじまる
 加賀・能登の古代・中世の編年史料集である『加能史料』の編さん事業は、昭和55年に着手以来、今年で19年目を迎えることになり、先頃平成9年度の刊行分として、「戦国T」(第10回配本)が上梓されました。
 本書には、応仁元年(1467)正月から文明13年(1481)6月まで、おおよそ15年6ヶ月分の史料が取められており、凡例・目次22頁、本文446頁、索引14頁、口絵8頁で、頒価は8,000円(発売所石川史書刊行会)となっています。
 この時期は、将軍家ならびに管領鳥山・斯波両家の継嗣問題に端を発し、天下を二分する有力守護細川(東軍)・山名(西軍)両派の争いに発展した、「応仁・文明の乱」の時代から、やがて京都の大乱終息後、地方に戦乱が波及しつつあった頃で、加賀・能登守護の在京中の活動に関するものが多く見られます。
 その間の主な事柄としては、当時北加賀半国守護の地位にいた赤松政則が、大乱の当初に、細川勝元第に同居し、東軍の尖兵として、さかんに奮戦していた模様が第一にあげられます。政則は、嘉吉の変で喪失した播磨・備前・美作の旧分国を、山名一族から奪回することに執念を燃やしていました。赤松氏は、のちに旧臣を率いて旧分国を占拠し、ついで播磨等3ヵ国守護に返り咲きますが、同時に北加賀守護職を離任したらしく、代わって先に東軍に転じた南加賀半国守護の富樫鶴童丸(政親)がこれを入手し、加賀一国守護の地位を得ました。その時期は、応仁2年(1468)7月に東軍の主将細川勝元が管領に就任した直後の頃と推定されます。
 一方、能登守護畠山義統については、東軍方からのたびたびの招請にもかかわらず、一貫して西軍方に止まり、京都における合戦では重きをなしていました。しかし文明9年(1477)11月に至り、西軍の守護たちが相次いでそれぞれの分国に下る中で、義続は当時擁立していた足利義視(将軍義政の弟)に従い、いったん美濃国に滞留したのち、能登に下国したと思われます。その後、義統は、越中国の奪取を企てたり、戦乱を避けた文化人を京都から能登に招くなど、北陸の地において頗る勢威があった様子が窺われます。
 このほか、蓮如の吉崎布教によって、急速に勢力を拡大した真宗本願寺門徒が、文明6・7年(1474・75)に、加賀で守護富樫氏に対し一挨を起こしたことは、すでに広く知られていますが、その関係史料についても、網羅的に収録しました。
 本書には、このほか在地の寺社の動きを伝える資史料も多く載せられており、戦国乱世に移行する時代に生きた、加賀・能登の武士や民衆の息づかいが感じられる内容となっています。

今年も盛況!! 古文書解読講座
 5月11日、当館主催の古文書解読講座が始まりました。本年度は、A入門コース・B基礎力養成コースT・C基礎力養成コースUの3コースを設け、各コースともに2クラスとして、140名の受講者をお迎えしました。
 第1回は3コース合同で実施し、金沢大学教授奥田晴樹氏の「古文書に見る徳川慶喜」と題した講義からいよいよ講座が開始となりました。奥田氏の講義は、慶喜の静岡隠棲から東京転居、公爵となり復権、大正2年に77歳で没するまでの後半生にスポットをあてました。幕末・維新史のなかでの慶喜論について、旧幕関係者による成果として渋沢栄一の編さんした『徳川慶喜伝』等を取り下げ、司馬遼太郎の“演技”論に言及されました。その上で、慶喜の復権過程を勝海舟の尽力とともに、明治政府による日清戦争後の国内統合強化策に乗ったことを指摘、一族の一大閨閥化を政治史研究の対象とすべきことを強調されました。
 講義は、10月26日まで13回行われ、80%以上の出席者には修了証をお渡しする予定です。

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