石川県史だより 第42号 平成15年2月

目  次
初代石川県令内田政風をめぐって
奥田 晴樹(金沢大学教育学部教授)
明治天皇の本郷邸臨幸
菊池 紳一(前田育徳会尊経閣文庫主幹)

初代石川県令内田政風をめぐって
金沢大学教育学部教授 奥田 晴樹

(一)

 明治初期の石川県成立期に関する歴史研究は、近年、新たな進展をみせている。 徳国寿秋が年来の研究をまとめ(1)、 森山誠一も緻密な研究成果を公にしている(2)。 ここでは、これらの先行研究の驥尾に付すべく、初代石川県令内田政風まさかぜについて、若干の検討を加え、 初期府県制期(3)の石川県が占めた全国政治ないし統治上の位置について考える 手がかりを探ってみたい。

(二)

石川県令 内田政風(『石川県史 第四編』)
石川県令 内田政風
(『石川県史 第四編』)
 内田政風について、まずにその人物像を辞典によって概観しておこう(4)
 内田は、文化一二年(一八一五)一二月二日、鹿児島城下に生まれた薩摩藩士で、仲之助と称し、政風は諱である。 少壮の頃より江戸や大坂で勤仕し、江戸藩邸の留守居添役となっていたが、 文久二年(一八六二)の島津久光の江戸下向の際、その武器輸送に奔走した。 翌同三年(一八六三)、京都藩邸の留守居に転じ、公武間の周旋に努め、 姉小路公知暗殺事件や禁門の変などで藩の立場を弁護したのをはじめ、 幕府倒壊・明治新政府成立に至る京都の政局にあって、藩を代表する形で活躍した。 戊辰戦争では、藩の財政や軍需を司り、明治二年(一八六九)に藩の参政となった。 同四年(一八七一)に金沢県大参事、ついで石川県権令、同県令に進み、同八年(一八七五)に退官した。 その後は、久光を補佐し、島津家の家令となった。 同二六年(一八九三)一〇月一八日、七九歳で没し、鹿児島市の大徳寺に葬られた。
 久光の東下は勅使大原重徳警護のためのもので幕府の文久改革に結果したが、 その折の働きが久光に認められ、 内田は江戸に代わって政局の中心地となっていた京都の藩邸留守居に栄転したわけである。 江戸の藩邸留守居は幕府や諸藩との交渉を表裏ともに担当する重職だったが、 京都のはそれに朝廷・公家や、さまざまな立場の諸国の志士たちを加えた、 大変難しい役職だった。 これに抜擢され、西郷隆盛の去就を想起すれば明らかなように、 藩論も政局とともに大きく揺れ動く中で、それを維新まで勤め上げたことは、 内田の政治的能力がなかなかのものであったことを物語っていよう。と同時に、その間、終始、 久光の信任を失わなかったことを、その決定的な要因と考えておかねばなるまい。
 内田は、久光の側近にあって補佐する立場にあった大久保利通や国許の家老らに宛てて、 京都の情勢を報ずる書翰をしばしば送っている。
 京都赴任後、不穏な京都の情勢を文久三年八月五日付で大久保らに報じている(5)。 それから間もなく八月十八日の政変が起こり、これを同年八月二二日付で大久保に伝えている(6)。 ついで、同月二九日付で四通の書翰を大久保に送り、大和五条での天誅組の変(7)や 政変後の京都政局の動きなど(8)を報じている。 九月に入ると、小松清廉(帯刀)に、一四日付・二一日付・二三日付(9)、 二六日付(二通)・二七日付(10)と、続け様に書翰を送って、 やはり京都の情勢を丹念に知らせている。 一方、内田の許には、各地の情報が集まってくる。 八月二三日付では三条実美ら七卿を伴って京都を退去した長州勢の動静(11)、 一〇月二五日付では但馬での生野の変(12)が伝えられている。
 慶応元年(一八六五)九月、兵庫沖に同港の開港を求めて英米仏蘭四ヶ国艦隊が来航すると、 内田は、藩を代表して朝廷に、交渉決裂時には、かねて藩主父子の指示もあり、 打ち払いの先鋒を勤めたき旨、願い出ている(13)
 慶応三年(一八六七)には、一月四日付で孝明大皇の崩御を報じている(14)。 ついで三月二九日付で大久保に土佐藩の内情を報じているが(15)、 その後、薩土両藩士の間に倒幕へ向けた提携関係が成立して行く。 そして、王政復古の第一報を同年一二月一四日付で国許に送り(16)、 新政府からの藩への指令に対する慶応三年(一八六七)三月付の請書も内田の名で提出している(17)
 これらから、京都での内田の役割が、情報収集と、 藩を代表しての朝廷との交渉などを軸としたものであることが浮き彫りになってこよう。とりわけ、 後者には、久光の信任が絶対不可欠の要件だったことは明らかだろう。もっとも、寺田屋事件以後、 維新までの間、西郷でさえも、形式的にせよ、久光の信任なくしては、 薩摩藩士として政治的活動はなし得なかった。 問題は、久光とのそうした関係を維新後も続けたかどうかである。

(三)

 明治新政府での内田の官歴は、明治元年(一八六八)五月付で刑法官事試補に任官するが、 同月付で依願免官した後、しばらく空白があり、同三年(一八七〇)三月付で太政官の少弁に復官し、 同日付で従五位に叙位されている(18)。 この地位は、当時の新政府では相当な上層部に位置するものと見られる。
 少弁は、明治三年当時の官制では左右大臣定員各一名、大納言三名、参議三名、大弁三名、中弁五名、 少弁六名という序列に、また従五位の方は官位相当制の下で正従一位から大小初位までの二〇階の第一〇階に、 それぞれ位置づいている。 左大臣が従一位、右大臣が正二位、大納言が従二位、参議と各省卿が正三位で、 これらの諸官が天皇の補弼の任に当った(19)。 これを政府の首脳部とすれば、大弁以下の弁官は太政官の内局にあってこれを補佐し、 首脳に準ずる政府上層部を、各省の大少輔とともに形づくっていた。
 実際の人事構成を見ると、左大臣は欠員で、右大臣の三条実美が最高官であり、 大納言と各省卿は公家と大名で(20)、大弁も公家だった(21)。 政府の実権は、大久保利通や木戸孝允らの参議や、大隈重信や寺島宗則らの各省大輔など、 西南雄藩々士出身者が握っていたと見られる(22)。 内田もこうした実権グループに近い立場にあったと見ておくのが妥当だろう。
 廃藩置県に伴う官制改革で弁官は廃止となり、内田は明治四年(一八七一)七月付けで廃官となるが、 同時に御用滞在を仰せ付けられ、同年八月一五日付で金沢県大参事に任ぜられる。 かくして、同年九月、内田は金沢に赴任してくることになる(23)。 この人事の背景には、参議板垣退助への陳情など、 旧金沢藩士族の陸義猶による鹿児島人招聘運動があったと言われる(24)。 もちろん、地元側のそうした動きもあったろうが、陸が私淑していたとされる西郷や桐野利秋らとは、 後述するように、同じ旧鹿児島藩士族でも明らかに異なる人脈に位置する、 内田その人が選ばれたについては、やはり維新以前の京都での実績や、廃藩置県以前の新政府での地位が、 新政府とは微妙な関係にあった旧巨大藩・金沢の新統治者に相応しいし、 また官制改革を名目とした政変(25)で、 政府の中枢から退けられた内田の処遇としても妥当だと、政府首脳部が考えた結果と思れれる。
 明治四年一一月二〇日付で旧金沢藩をそのまま継承した金沢県が、 同様の富山・大聖寺県ともども廃止され、加賀のみ管轄する新しい金沢県が設けられ、 内田はその参事に同年二月二二日付で改めて任ぜられる。 ついで、同五年(一八七二)二月二日付で金沢県が石川県と改称され、同年九月五日付でその権令となり、 さらに同月二五日付で七尾県の廃止によりその管轄下の能登が石川県に編入される(26)。 その後、同六年(一八七三)一二月二七日付で令(県令)に昇任し、 同八年(一八七五)三月三一日付で依願免官となる。
 内田が石川県のトップの座を占めた三年七ヶ月の間の治政で、 最も著名なものは県庁の美川移転だが(27)、ここでは、 政府中央と彼との関係を窺う事例として、 河川の堤防・用悪水路・道路・橋梁・港湾などを修築する土木費の国庫補助について見てみたい。
 明治元年から同一二年(一八七九)までの土木費の国庫補助額を府県別に比較検討した長妻廣至は、 石川・高知両県への国庫支出が全国的なバランスから見て過大だとし、 その原因として近世以来の旧慣や領主負担の比率の大きさを推定している(28)
 政府は、明治六年八月付の大蔵省番外達で、河港道路修築規則を制定し、 また過去三年から五年平均の堤防・用悪水路・道路・橋梁経費を官民間の費用負担額別に調査して報告するよう府県に指示し、 その調査結果に基き、来年度より五ヶ年間、定額の官費を支給すると達した(29)。 石川県は、翌七年(一八七四)二月付で、 同規則に基く道路・橋梁・河川・港湾の等級指定を大蔵省に報告するとともに、 土木費の全額が地民負担とされる同規則の第三則適用分についても、 次のように官費補助の継続を求めている(30)
第三等相当ニ候ヘトモ当管下ハ予テ上申仕置候通従来貢租ハ苛ニシテ是ニ換フルニ民費ニ宛ツ 可キ堤防等修築ノ箇所多分官費ヲ以取扱ヒ来候旧藩ノ仕法及手取川等諸川一橋百円内外或ハ数 百円ヲ費ス有リ加フルニ即今地券取調方モ有之民間ノ失費許多ノ折柄一時民費ニ相改候儀ハ容 易ニ難行情態モ有之候間此往キ租税改正方施行候マテハ旧慣ニ据置申度御座候
 旧金沢藩は貢租の重い分を土木費の補助を増やしてバランスをとる政策をとっており、 地券交付の民費負担が嵩んでいる現状では、 地租改正実施(31)までは旧藩以来のやり方を続けたい、というのである。
 この史料の文言を文宇通り受け取れば、長妻の原因推定が妥当なようにも思えるが、 明治八年に石川県が政府中央に提出した、加能両国の官民別土木費の報告(32)を見ると、 かならずしもそうは言えないようである。 同報告によれば、加賀は、総額が一六万七、七八五円五六銭六厘、 うち官費が五万四、八一四円二二銭九厘(三二・六七%)、 民費が一一万二、九七一円三三銭七厘(六七・三三%)。 能登は、総額が六万九、二二九円九銭、官費が一、四一七円八七銭六厘(二・〇五%)、 民費が六万七、八一一円二一銭四厘(九七・九五%)となっている。 加賀でこそ官費は全体の三分の一弱に達しているが、能登は総額で一〇万円弱少ない上に、 官費はほとんどなきに等しい数値である。 両国の合計額で官民間の土木費負担を比較してみれば、 官費が二三・七三%、民費が七六・二三%で、官費は全体の四分の一弱に止まるのである。 この数値が全国的に見て、官費が占める比率として高い方に属するのかどうかは、 今後の検討に挨たねばならないが、仮に旧慣が確かに県の主張通りだったとしても、 それは加賀に関してのみ言い得ることであろう。
 明治七年二月付の報告では、大蔵省が求めている官民別土木費の調査結果が欠けており、 同八年の報告がこれに相当するものと考えられる。 さすれば、石川県は、七年二月の時点では、数値の裏付けを示さぬまま、先の上申を行ったことになる。 これに対する大蔵省の回答指令は史料を欠いて不明だが、 長妻が指摘するような土木費の突出がその後の石川県に認められるとすれば、 第三則適用分について他の府県でも見られたような旧慣にしたがって官費補助を継続したケースに、 石川県も該当することになったのであるまいか。 政府中央におけるこの辺の裁量に、内田の政治的影響力が何ら働かなかったと考えるには、 いささか躊躇せざるを得ない。

(四)

 内田は、何故、石川県令を、それも明治八年三月三一日の時点で、依願免官したのか。
 この時点に至る政局は激動の連続である(33)。 前年の明治六年一〇月政変で「破裂」した政府にとって最大の脅威は、 西郷を盟主と仰ぐ士族「小国家」と化した鹿児島の存在である。 同六年一二月二五日付で島津久光を内閣顧問に任じて政府側に引き入れたり、 翌七年二月に佐賀の乱が起こると台湾出兵を企てて鹿児島士族を徴募兵として台湾へ送り込もうとしたのも、 すべては鹿児島に士族反乱の火の手を上げさせぬためである。 ところが、台湾出兵が政府の再度の分裂を招き、四月一八日に参議木戸孝允が辞意を表明する。 木戸辞任が必至となった時点での、政府補強措置が同年四月二七日付での久光の左大臣任命だった。
 形式上、天皇補弼者第二位の地位に就いた久光は、五月二三日付で建言書を提出し、洋式化した服制と、 地租改正へと向かっている税制の復旧、そして佐賀の乱を鎮定し、 さらに台湾出兵を決断して長崎から東京に戻ったばかりの参議兼内務卿大久保利通の罷免を要求するのである。 結局、これは大久保が辞表を出したことで、久光は六月六日には建言書撤回に追い込まれる。
 台湾出兵は清との全面戦争の危険を孕み、その解決のため、 大久保は八月六日には東京を出発して北京へと向かう。 大久保は、清との交渉妥結に成功して年末に帰国するが、 明治六年一〇月政変直後の内務省創設以来の宿願であった内治充実の諸政策を実施するには政局の安定が不可欠と考え、 翌八年二月一一日の大阪会議で、立憲政体の導入を合意して、木戸と板垣退助の参議復職を実現する。
石川県庁(『加賀地誌略』)
石川県庁(『加賀地誌略』)
 かくて、久光の政治的役割は、ただに鹿児島士族の反政府的結束回避の駒たるに止まるに至ったのである。 ここに、内田が翌三月三一日付で依願免官し、久光の膝下に参じて島津家の家令に転じる、 一つの背景があると思われる。その後、久光は、板垣と提携して大久保と対立するが、 結局、一〇月二七日付で、板垣ともども依願免官に追い込まれる。 政府は、久光を東京に引き止めるべく、一一月二日付で麝香間祗候を命ずるが、 彼は翌一二月には浴泉の暇を乞うて帰県する(34)
 久光に随行したかどうかまでは不明だが、内田もそれに前後して帰県している。 内田は、翌九年(一八七六)二月二六日付で二通の書翰を西郷隆盛に送り、 帰県に至る経緯を述べ、政府を厳しく批判して、久光との提携を説いている(35)。 そのうち一通は、久光の所信を内田なりにまとめたもので、その内容を彼も了承しているという。 もう一通は、内田自身の所信を述べている。 そこでは、対外危機が切迫する一方、鹿児島士族が分裂している現状を憂え、 旧主との君臣の情誼は不変だとして、久光との結束を、次のように説いている。
然るに我が薩十ヶ年以前は天下の強国として勢力朝日の昇るが如く、天下靡然として武徳を仰ぐの処、 維新後何となく些々たる感情上、意志疎通せず。 疎情の姿に立到りしは実に皇国の一大不幸、小節に拘らず邦家の為虚心を以て一和し、 古の武名を墜さず、一朝事あるに際しては一県を挙て天下に縦横し、同胞相救ふの信義を結束し、 皇国の親軍とならまほしく存候。(中略)身の不肖を顧みず公に赤心を上申する処、 自然閣下上京するとあれば実に皇国の僥倖充分倶に御尽力可被為在の御身据へ、 御胸中に御溢れ候様に恐察致され候。 今日は君臣の名義なしと雖も精神に至りては旧藩代に変ることなきは人の真情なり。
 内田は、翌三月一日、西郷を訪問して会見するが、西郷は久光との提携に同意しない。 そして、内田の求めに応え提携不同意の旨を同月三日付の書翰に認めている(36)
 翌一〇年(一八七七)二月一五日、西郷は、政府へ尋問の廉ありとして、率兵上京の途に就き、 西南戦争が勃発する。 政府は、勅使を鹿児島に派遣して、久光父子に西郷らに荷担することなきよう諭させた(37)。 これに対し、久光父子は、四月一日付の意見書で、一応、政府への忠誠を表明しつつも、 西郷と大久保の訊鞫を求める。 この意見書を正副各二名の使者に託し、京都の行在所で明治天皇に侍していた太政大臣三条実美に提出させた。 正使二名はいずれも島津家の人で久光父子の名代であり、陳弁の任は副使が当たったと思われるが、 その一人が内田であった(38)。 そして、帰県後、内田らは、五月付で西郷軍本営に宛てて、 西郷暗殺の証拠を政府に提出して裁判に服するようにとの勧告書を送ることになる(39)。 しかし、これへの回答はなかった。
 天秤の片方が空になれば、もう片方も不要になる。久光、そして内田が再び政局に棹さすことは、 以後はない。 久光は明治二〇年(一八八七)一二月六日に亡くなるが(40)、前述したように、内田はそれから六年して旧主の後を追っている。

(五)

 内田が成立前後の石川県のトップの座を占めた廃藩置県から大阪会議に至る時期は、 立憲政体の導入が国是となる以前、したがって国制改革の方向が不確定な状況を政治的、 そして制度的な前提として、府県が成り立っていた。 この時期の府県は、確かに「政府出先機関」にすぎないと見られる面をもっているが、 政府中央との直結関係は上意下達の一方通交的なものではかならずしもない場合もあったと考えられる。 けだし、これがこの時期の府県を「小国家」とさえ特徴づける学説の成立する所以の一つだろう(41)。 ここで垣間見た内田時代の石川県は、該期の「中央−地方」統治構造が具有する、 ある種の双方向性という面からも、今後、大いに吟味される必要があるのではなかろうか。



明治天皇の本郷邸臨幸
前田育徳会尊経閣文庫主幹 菊池 紳一

・明治四十三年行幸啓記録

 明治四十三年(一九一〇)七月、侯爵前田利為の本郷邸へ、明治天皇・皇后夫妻および皇太子夫妻の行幸啓があった。尊経閣文庫(以下文庫と略称する)にはこの時の分厚い記録「明治四十三年行幸啓記録」(四冊)が残っている。本稿では、これらをもとに、天皇行幸に対する準備を中心に、事後の絵巻製作までの経緯を紹介したいと思う。(以下敬称は省略する)
 最初にこの記録の内容を概観しておこう。これは大正十三年(一九二四)十月に大野木克豊がまとめたもので、本来十七冊であったが、現在では四冊に仕立て直されている。元の冊次で各冊の内容を示すと次のようになる。まず、第一冊には発端が記され、以降、第一日準備(第二〜四冊)、行幸(第五・六冊)、第二日準備(第六・七冊)、第二日行啓(第ハ・九冊)、第三日準備(第十冊)、第三日行啓(第十一・十二冊)、元老大臣以下旧藩士招待(第十三冊)、行幸啓前後雑事・参考書類(第十四〜十六冊)が各冊にまとめられ、最後の十七冊に「臨幸画巻」に関する絵巻物一件書類が記載されている。

・上屋敷から本郷邸へ

 本郷邸の地は、元和二年(一六一六)に三代利常が幕府より賜り、下屋敷としたことから始まる。その後明暦三年(一六五七)の大火の時、五代綱紀が上屋敷(辰ノ口邸、現の和田蔵門外)から難を下屋敷(現文京区本郷)に避け、その後辰ノ口邸を返納して下屋敷を上屋敷とした。以降明治維新に至るまで上屋敷は本郷にあった。
 明治二年(一八六九)の版籍奉還後、新政府は旧藩主邸を各一邸と制限したため、前田家は一旦上屋敷を返納し、あらためて同四年旧邸の一部(西南側一万五千坪)を私邸として拝領した。しかし、十三代斉泰は再び上納を命じられることを予測し、この年十二月には金杉村根岸(現台東区下谷)に土地・建物を購入して翌年二月に移住し、二か月後十四代慶寧も移性し、前田家家族の大部分はこの根岸別邸に居住することになった。十五代利嗣は明治七年十二月仮藩庁を改修して本郷邸に移り、再び前田家の本邸となっている。
 利嗣は、本郷邸は古い建物で、部屋の配置や構造も不備であったので、本邸を新築し明治天皇の臨幸を仰ぎたいと考えていた。しかし、新築は日清戦争のため延期となり、その宿願は養嗣子の十六代利為が継承することになった。明治三十五年十二月地鎮祭が行われ建築が開始された。途中日露戦争によって一時中断したが順調に進行し、同三十八年十二月には日本館が竣工し、同四十年五月西洋館が竣工し、同年十二月に内装工事も終了している。こうして臨幸を仰ぐ体制は整っていった。

・明治天皇行幸決定までの経緯

 これ以前の明治天皇の宮家・貴族・元老等各家への行幸は、宮内省の総務課長より教示された表によると、明治六年(一八七三)の岩倉・三条・毛利・嶋津等の諸家から始まり、同二十九年の伏見宮まで約五十回に及んでいるが、この十数年ほどは途絶えていた。
 一方、前田邸への臨幸は、明治元年(一八六八)十月二十七日と同四年閏十月の二度、明治天皇が大宮永川神社(現さいたま市)への行幸の途中、本郷邸の物見所に休憩されたのが早い例である(『加賀藩史料』)。ついで明治十二年四月には、王子の抄紙工場からの帰途、休憩のため立ち寄られている。しかし、正式な臨幸はなかったのである。
 利為(行幸時二十五歳)は、しばらく途絶えていた明治天皇の行幸を復活するため、折に触れて尽力していった。その最終的な契機は、明治四十二年六月の皇后の鎌倉邸への行啓であり、同年九月に実施された皇太子(のちの大正天皇)の北陸地方への行啓であったと思われる。利為は皇太子の行啓に供奉し、金沢の宿泊所として成巽閣を提供している。こうした折りに本郷邸への行幸の希望を伝えたのであろう。この年十月二十四日、利為が御礼のため東宮御所に伺候したとき、皇太子より「前田侯爵ニ於テ行幸ヲ仰キ奉リタキ内願ノ意アル趣陛下に御申上ケアラセラレタル旨」の内意が示された。ついで、翌年正月十一日には岩倉宮内大臣より早川相談役に、かねて内願のあった天皇の前田家臨幸の件は、昨十日に天皇の内意が示され、その時期は四月・五月の頃と仰せられ、皇后陛下・皇太子・同妃殿下の行啓もよいと御諚があったとの内示が示されたのである。正式な臨幸は今回が初めてであり、利為の喜びは大きなものがあった。

・準備委員会の設置

 年を越すと早速前田家では準備のための委員会を設置した。委員長には早川千吉郎(病気のため四月に男爵本多政以に交替)、委員には織田小覚・羽野知顕・高木亥三郎・小本貞正等が任じられ、最初に先例を調査するため、鍋島侯爵家・土方伯爵家・井上侯爵家に行幸記録の借用を依頼、早速鍋島家家令古川源太郎から書類が到来した。こうした先例を勘案し役割分担が定められた。分担は西洋館装飾・日本館装飾・設備・献上品併贈進品係・根岸御邸土木監督・戦病死軍人写真帖調整・用度品・献上御食事并ニ御間物供奉員并招待客饗応・往復書類招待状其他諸記録・御料馬車儀杖兵諸設備御共人諸設備・会計・内外諸賄調・蔵品陳列・余興(相撲・能楽等)・撮影・臨時用務に分かれ、それぞれ責任者のもとに数人の担当者が配置され、準備が進められていった。

・準備委員会での一コマ

 準備は前田家が案を作成し、宮内省と相談しつつ進められていった。早い時期の打ち合わせの案件は次のようなものがあった。@行幸啓御予定ニ関スル件、A余興ニ関スル件、B陳列品及能楽ニ関スル件、C行幸啓の秘密ニ関スル件、D行幸願書ノ件、香川大夫并錦小路主事打合ニ関スル件、E供奉員饗応ニ関スル件、F蔵品陳列陪覧ニ関スル件、G男爵拝謁ニ関スル件等である。
 @については、宮内省の近藤総務課長と内談の上二案が作成された。第一案は午前十時に皇居を出発、十時半に前田家着御、以降拝謁・献上品、角力、御昼餐、陳列品御覧、能楽、御晩餐、余興が一時間か三十分おきに定められ、午後九時に還幸となっている。第二案は午後一時に皇居を出発、同様の予定が組まれ、午後九時に還幸となっている。Aについては、角力(東西幕内全部)、能楽(宝生九郎、松本金太郎、同長野口政吉、梅若万三郎、同六郎、観世織雄、金剛鈴之助、観世清久、喜多六平太、桜間件馬、同金太郎等)、活動写真、仕掛花火、薩摩琵琶(西幸吉)、盆画・盆石、貞水講演(日露戦争談)、席画(川端玉章、竹内栖鳳、下村観山、菊池芳文、竹内春挙等)が提案された。Bについては、陳列品は蔵品の目録、能楽は番組の演目が前田家から提示された。
 Cについては宮内省から、この件が他所に洩れることのないよう、極秘に準備を進めるよう要請があった。Dの御臨幸願は、最初文書で提出する予定で織田小覚の起草による願書案が作製されたが、三月二日の近藤秘書官と日野侍従との打ち合わせで、三月十日に利為が宮内省に出頭し口頭で宮内大臣に言上することとなった。参考に綴られた願書案から、かいつまんでその主旨を紹介する。最初に、先代利嗣が自宅を新築しそこに天皇の臨幸を願っていたが、不幸にして達成できなかったことを述べ、利為はその遺志を継ぎ、漸く自邸の新築が成ったので政務の余暇に臨幸いただければ、利為ばかりでなく故利嗣も厚い皇恩に感謝するだろうと述べている。
 Eは日本料理か西洋料理か、何れが適当か、Fは天皇が御覧の時は随員も付き従って陪覧するのか、天覧後に見るのか、Gは男爵(旧前田家家臣であろう)であっても、いまだ天盃を下賜されない者は、拝謁を仰せ付けることはできないのかという、前田家からの確認である。以下省略するが、このような部細にわたる打ち合わせが積み重ねられ、邸内の各部屋の使用方法に至るまで定められたのである。

・西洋館の装飾

 次に、西洋館・日本館や庭園等各施設の装飾等の準備を見てみよう。当時の日本では西洋館の普及が進んでおらず、その内部の装飾に関しての専門家がいなかった。そこで、前田家では一月末にフランスで洋館装飾を学んで帰国した野口駿尾にこれを依頼した。本郷邸における西洋館は、来賓用の建物で、主として外国人の来賓を念頭において設計されていた。ここに天皇を迎えるため、楼下大客室に天皇の玉座が設けられた。敷物は一面に新調され、宮内省に依頼して新調した御卓子・御椅子・御帽子台・御剣架・御烟草箱・御灰切・御卓子掛等が据えられた。天皇の玉座の背後から左側にかけては雪舟の花鳥図屏風が立てられ、壁間には菅原直之助作の富士山刺繍図が掛けられた。これらは後述の「臨幸画巻」にも画かれている。また、玉座脇はじめ各所に盆栽や氷塊・扇風機が配置された。
 装飾で大事なものに洋画がある。当時前田家には洋画がほとんどなかったため、野口は黒田清隆と相談しつつ洋館の装飾に欠かせない油絵を探し、二月に、富山県出身で長くヨーロッパに滞在し、洋画を収集していた故林忠正のコレクション二十四点を、林の遺族から三万円で購入している。その中には、緑野二三美人図(ラファェル・コラン)・河岸物揚所ノ図(ギョーマン、石川県立美術館寄託)等、現在文庫に残る油絵が含まれている。
 また、西洋館の玄関左右の装飾として、美術学校教授沼田一雅に依頼して、前田家初代利家の股肱の臣奥村家福・村井長頼の甲冑姿の石膏像を製作し、五月三十日に完成している。これは、ニッチ(西洋建築で壁面の一部をくぼめた龕状の装置)に軍神と猟神を模して製作されたものである。金属製にすると製作期間が必要なため石膏像とされた。この両像は現在文庫の閲覧室に飾られ、威容を示している。

・日本館装飾と能舞台・庭園等の整備

 新築された日本館用として襖絵が画かれるが、四季山水図襖絵(橋本雅芳筆、二十八枚)もその一つである。昭和五年(一九三〇)に前田邸が本郷から駒場に移転した時にも、新築された和館で使用された。現在襖絵は別途保存され、石川県立美術館に寄託されている。また文庫にはこの下絵である四季山水襖杉戸下絵(橋本雅芳筆、三巻)が残っている。
 新築された能舞台は、二月に約五千円の檜材の発注を行った。能舞台及び附属の陪覧席、廊下等、建坪百坪余、建築費は見積額約四千七百円であった。三月に上棟が行われ、六月には完成した。この能舞台は臨時の建物で、行幸啓後取り壊され、料材は保存され、跡地には根岸別邸の茶室を移築し、庭園の形に改造された。
 庭園は、江戸幕府の城内御庭師として有名な「染井の庭彦」こと伊藤彦右衛門の二代目嘉市に委嘱された。伊藤は維新後前田家の庭師として勤務しており、前田家の各庭園に通じていた。新造される庭園は約二千五百坪で、造成の材料は根岸別邸のそれを移築することとし、それに小豆島の奇岩奇石や朝鮮燈籠・雌雄銅製の鶴等を配置、水流・築山・人工滝等を設け、鴨川河鹿数十匹・蛍二万匹を放つ、凝った庭園であった。伊藤は一月二十八日から造園を開始し、四月三十日に完成させている。現在文庫には、この庭園の写真が残っている。
 なお、西洋館・日本館には数多くの屏風が配置されたが、不足の金屏風五双は金沢市中町の宮地次右衛門に製作が依頼された。宮地は、製作が間に合わない場合を考慮して金屏風八双を仮に送った。これらは五月三十一日に品川に到達、行幸後の七月十八日に金沢に還付されている。ところが、宮地は損料として二百四十二円八十銭を要求してきた。前田家では「先年金沢ニ於テ供入タル損料ニ比シテ、一双ニ付十円斗多額ナレトモ、遠隔地途中多少ノ破損シタル箇所モ有之趣ニ付」として、満額支払ったという。

・臨幸画巻の製作

 右記のような準備のもと、七月八日明治天皇は本郷邸に行幸された。拝謁、絵画の叡覧、能楽御覧、蔵品の叡覧、薩摩琵琶の演奏等があり、盛儀であったという。同十日皇后の行啓、十三日皇太子・同妃の行啓があり、同十六日には、山縣・松方・井上以下の元老・大臣・軍の長老をはじめ、親族・旧藩士等を招いて、無事終了の祝宴が開催された。
 利為は、行幸啓の記念事業を計画し、対外事業としては、東京帝国大学に講座新設基金の寄付、本郷邸周辺の尋常・高等小学校に文庫設立基金の援助、図書館準備設立基金の推進、育英社の拡充整備を、対内事業としては、北海道林業事業の拡充整備、行幸記念絵巻物の製作、行幸記念碑の建設、行幸記念写真集と揮毫等の手鑑作成を行うこととした。
 このうち絵巻物について簡単に解説しておこう。現在文庫に「臨幸画巻」(三巻)が残っている。これは前美術学校校長岡倉天心を顧問に、下村観山に画の執筆を委嘱して製作されたもので、詞書は永山近彰の記事を文学博士幸田露伴が訂正し、尾上柴舟が清書している。内容は、次の十五図からなる。第一図鳳輦着御、第二図侯爵奉導、第三図能楽叡覧、第四図宝刀聖鑑、第五図天杯下賜、第六図玉輅奉迎、第七図家族上謁、第八図手品奏技、第九図盆栽御覧、第十図能楽打扮、第十一図蔵品台覧、第十二図庭園逍遥、第十三図陪宴張楽、第十四図車駕稠沓、第十五図家廟礼拝である。製作は、途中岡倉の病死や下村画伯の病気等により遅延したが、前田家は下村画伯のアトリエを根岸村に提供し、昭和六年末に至りようやく完成した。この間の製作の経緯は文庫に残る「臨幸絵巻物製作始末記」に詳述されている。なお、下村観山の下書きである「臨幸画巻粉本」(三巻)も文庫に残っている。
 この明治天皇の行幸とその後の記念事業については、文庫に多くの史料が残り、当時の政治や経済、また文化の状況を知り得るものであるが、紙幅の関係もあり略述せざるをえなかった。別の機会に紹介したいと思う。

(参考文献)

前田利為侯伝記編纂委員会編『前田利為』(昭和六十一年四月)
『フランス絵画と浮世絵−東西文化の架け橋 林忠正の眼−展』図録(高岡市美術館、平成八年九月)
『前田利為と尊経閣文庫』図録(石川県立美術館、平成十年二月)

『石川県史資料 近世篇(4)』近刊
宮腰・五郎島・松任・七尾など
演目等一覧・解説論文
《お問い合わせ》
石川史書刊行会
石川県立図書館史料編さん室内
電話 076-223-9579

石川県史だより 第四十二号
平成15年2月20日発行
編集 石川県立図書館史料編さん室
県史編さん班
発行 石川県立図書館
〒920−0964
 金沢市本多町三丁目二番十五号
  電話 076-223-9579
  FAX 076-223-9585(図書館)