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石川県史だより 第43号 平成16年2月

目  次
加賀藩作事方の二人の傑出した建築工匠
田中 徳英(石川県文化財保護指導員)
近代能楽史料としての『三百年祭記事』二種
西村 聡(金沢大学文学部教授)

加賀藩作事方の二人の傑出した建築工匠

石川県文化財保護指導員 田中 徳英


 ■はじめに

 江戸初期の加賀藩御大工であった山上善右衛門嘉広は、明暦三年(一六五七)の小松天満宮社殿(小松市)、万治二年(一六五九)の瑞龍寺仏殿(高岡市)など多くの作事に関与し、「加賀藩大工の鼻祖」といわれた。また、山上嘉広の手掛けた作品は、加賀藩作事方の建築様式の規範となったものと推定される。
 清水治左衛門峯充は、江戸後期に頭角をあらわし、加賀藩御大工頭として天明七年(一七八七)の気多神社本殿(羽咋市)、天明八年(一七八八)の金沢城三の丸石川門続櫓(金沢市)など多くの作事に携わった。
 本稿では、棟札・古文書などの史料を調査し、二人の建築工匠がどのような活躍をしたか述べることにしたい。また、それらの作品の細部意匠にみられる特徴を考察する。しかし、文化六年(一八〇九)の金沢城二の丸御殿の再建に関与した井上庄右衛門明矩、文政三年(一八二〇)の瑞龍寺山門の再建を指図した山上善右衛門吉順など、他にも作事方でよく活躍した建築工匠がいることを忘れてはならない。

 ■坂上家と建仁寺流

 妙成寺(羽咋市)は近世初頭に本堂、祖師堂、五重塔など諸堂宇が建立され、伽藍が整備された。最も古い建物は庫裏であり、地元大工の手になったものと推測される。次いで本堂が古く、細部には桃山時代の手法がみられ、禅宗様が主に用いられている。そして、昭和六年の修理の際に発見された墨書に、「維時龍集慶長第十九暦卯月良日建橈者也当山妙成教寺大工坂上又三良」とあり、慶長十九年(一六一四)に坂上又三良によって建築されたことがわかる。祖師堂は寛永元年(一六二四)の建立で、坂上一統の手になるものと推定され、二軒扇垂木や三手先詰組の巧妙な造りなど禅宗様の手法を駆使している。
 五重塔は、所蔵の棟札によれば、元和四年(一六一八)に「越前北庄住坂上越後守嘉紹」により建築されたことがわかり、「…爰予相看洛陽建仁寺之内匠頭坂上越後守嘉任人相承和漢工匠之道則受印可一章其言云不残意底令口伝畢今建塔廟顕彼秘伝…」とある。この坂上越後守嘉紹とは、文政六年(一八二三)山上全之助吉敏の記した「山上善右衛門略系図由帳」(山上家文書)にいう坂上右近大夫嘉継のことと思われる。それは、紹はつぐと読めること、花押が似ていること、妙成寺過去帳に「當山諸堂造榮棟梁大工/宗源院日匠/坂上右近寛永十七五月」と記載されていることによる。また、由帳によれば、十五代嘉任→十六代嘉継→十七代嘉広と建仁寺流を相伝したと強調している。このことに関する史料として、明暦三年二月の小松天満宮社殿棟札があり、「大工入唐自横山嘉春十七代/山上善右衛門尉嘉広」と記されている。
 坂上家は初代を横山権頭吉春としており、文治三年(一一八七)栄西に従って入宋し、建久二年(一一九一)帰朝後、博多聖福寺、京都建仁寺の創建等に従事し、その子孫が代々建仁寺大工職を世襲したという。横山権頭吉春に関する史料は近世以降であり、近世の史料から中世のことを論ずるのは原則として無理であるから、伝説的人物とみなされてもしかたがないと考えられる。そして、十五世紀中ごろの建仁寺大工職の保持者たちは、一族からなり、「近」の片名を共有している。ところが「坂上家系譜」には「近」をもつ大工実名はひとつもなく、このことから系譜の中世部分に信憑性が疑われる(永井規男「建仁寺門前の大工について」)。よって、坂上家の系譜で確実に遡れるのは坂上嘉任で、「洛陽建仁寺内匠頭」として、坂上嘉継など数人の弟子がいたものと思われる。ただし、「蔭凉軒日録」の延徳三年(一四九一)十月十二日条に、「太郎次郎対寺家不義者也…(中略)…与寺家義絶也以故大工職事藤左衛門云者仁白付了矣」とあり、建仁寺大工職を仰せ付けられた藤左衛門は十二代坂上藤左衛門に比定できる可能性がある。
 山上家以外で坂上家と関係があると思われる工匠がいる。寛文四年(一六六四)田鶴浜町の赤蔵山上一本宮寺奥ノ院棟札には、「入唐従横山嘉春十七代/大工 坂上嘉澄嫡子源尉嘉清」とあり、坂上嘉清は、十六代嘉継→十七代嘉澄→嘉清と相伝したと主張している。また、棟札写によれば、長谷部神社本殿は寛永二十一年(一六四四)の建立で、「大工 坂上宗左衛門」とある。坂上宗左衛門は十七代嘉澄と考えられる(「長臣大系図」)。

 ■山上善右衛門嘉広

 山上善右衛門嘉広は、由帳によれば、「那谷寺諸堂造営成就」によって正保三年(一六四六)知行百石を給せられ、ついで瑞龍寺、日石寺、妙成寺、気多神社、小松天満宮そのほか社堂を多く建築したという。これら諸堂の中で、棟札により嘉広が関与したと確認されるのは、小松天満宮社殿と瑞龍寺仏殿である。
 さて、山上嘉広が多くの藩の重要な作事に関与できたのは、前田利常に重用されたからであろう。嘉広の父・嘉継は、慶長・元和頃の妙成寺諸堂建立で功績があったことはよく知られているが、妙成寺は利常の母・寿福院の菩提所である。ゆえに、嘉継より建仁寺流を継承した嘉広の力量を見込んで、利常は那谷寺造営の指図を命じたものと推測される。
 なお、身延山久遠寺二十八代・日奠より山上善右衛門宛の書状(山上家文書)がある。日奠の身延山における在職期間の万治三年より寛文七年までの間と推定されるこの書状は、旧知の間柄である山上善右衛門の棟梁としての腕前を高く評価していたことを示している。
 「御大工知行帳」によれば、山上嘉広は寛永五年(一六二八)御大工となり、寛文九年(一六六九)「奉公御免」となったから、約四十一年間作事方の御大工として勤務したことになる。瑞龍寺仏殿に関与したとき、山上嘉広は六十歳または六十一歳で、技量が円熟したときであった。瑞龍寺仏殿の棟札には、「御大工 山上善右衛門/御扶持御大工 中村半次」とある。中村半次は藩の御大工で、承応四年(一六五五)に瑞龍寺の作事に派遣され、切米五十七俵のほか、特に二人扶持を支給されることになったので、棟札に「御扶持御大工」と記されたものと思われる。瑞龍寺伽藍の作事において山上嘉広は中心となって指図したが、中村半次も重要な役割を果たしたと考えられる(「越中国高岡町図之弁」)。  山上嘉広が関与した建物について、建築様式などの特徴を述べることにする。
(1)那谷寺鐘楼
 上層の垂木枝数は、正面中の間十二枝、両脇の間十枝、側面各柱間十一枝で、建仁寺流の「聖家天台真言宗七堂之図」(清水文庫)の「鐘楼」に合致する。このことは、構造・規模が異なる妙成寺鐘楼と同じ枝数であり、設計者の山上嘉広は建仁寺流の大工技術書の内容に精通していたことを示している。
(2)小松天満宮社殿
 本殿(桁行三間、梁間二間)、石の間(桁行二間、梁間三間)、幣殿(桁行二間、梁間三間)および拝殿(桁行七間、梁間三間)よりなり、向拝(三間)を設ける。屋根をみると、本殿は入母屋造、石の間は両下げ造、幣殿は後面切妻造、前面拝殿に接続、拝殿は入母屋造、正面千鳥破風付き、向拝を軒唐破風付きとし、複雑な屋根の構成となっている。
(3)瑞龍寺仏殿
 方三間、一重裳階付き、入母屋造で、軒廻りが二軒の扇垂木(上層)、平行垂木(下層)となっている。下層の垂木枝数は、中の間二十四枝、脇の間十六枝、雨打の間十二枝で、建仁寺流の「禅家金山寺図」(清水文庫)の「三間仏殿」に合致する。

 ■清水治左衛門峯充

 清水家の先祖由緒書によれば、初代の清水九郎兵衛は尾張から前田利家に随伴して越前に移り、天正六年(一五七八)御大工に召出され、切米五十俵を給された。その後長男の与左衛門と三男の九左衛門の家系は続き、作事所が廃止される明治元年(一八六八)まで代々加賀藩の作事方にて活躍する。清水治左衛門峯充は与左衛門の後裔である。
 清水峯充は、享保十五年の生まれと推定され、棟梁大工に十八歳、御扶持方大工に二十六歳、御大工に三十歳、御大工頭に四十九歳でそれぞれ任命されたことが知られる。そして、文化五年(一八〇八)十月に七十九歳で病死したから、御大工頭の在職期間は約三十年、御扶持方大工・御大工の期間も含めると実に半世紀もの間加賀藩作事方に勤務し、棟梁大工、御扶持方大工、御大工、御大工頭と昇進した。気多神社本殿、金沢城石川門続櫓などの貴重な遺構が残っていて、その活躍のほどが偲ばれる。棟梁大工、御扶持方大工、御大工のときに関与した作事はよくわからないが、御大工頭として極めて多くの作事を担当した。すなわち、その当時加賀藩作事方の第一線にいて活躍したことを示唆してくれる。
 ところで、越中射水郡大窪村の大工が文化六年(一八〇九)正月に作事所に提出した「…今般二ノ御丸御造営御普請御座候ニ付願書指上申候扣」(高橋家文書)によれば、文化五年一月十五日に金沢城二の丸御殿が焼失したとき、早速駆けつけて御大工頭・清水峯充と共に焼け跡を見分している。よって、清水峯充は、病死する直前まで御大工頭としての職責を果たそうとしていたように思われる。このように、御大工頭は、本人が役儀御免願いを提出しない限り、病死直前まで勤務することがしばしばあった。
 清水峯充の関与した建物を取り上げて、建築史の特徴を述べることにする。
(1)気多神社本殿
 各柱筋にすべて丸柱が立ち、向拝柱のみ角柱とする。前面庇を外陣、身舎前寄り一間を中陣、後寄り一間と背面庇を内陣としている。内陣は前寄り一間四方を板壁で囲んで神座とする。本殿は奥行きの深い平面構成であるが、神座の後ろを廻れるようになっているので、「神仏習合」の影響を受けたものと考えられる。妻飾りにいろいろな文様を題材とした彫刻装飾がみられる。妻虹梁上の大瓶束両脇の龍の透し彫り笈形、板壁や蟇股の雲、牡丹、菊、紅葉と鹿、兎と波などの彫刻は優美で、意匠的に優れている。
(2)気多神社摂社白山神社本殿
 本殿と同時期の建立、同じ大工で、中の間十六枝、脇の間十四枝、傍軒十三枝(破風とも)と垂木枝数も全く同じである。白山神社本殿の正面柱間は、本殿正面の柱間寸法を約八十二%に縮小している。妻飾りの意匠も本殿に比べてやや控え目となっている。ただし、向拝の虹梁形頭貫に渦・若葉の代わりに山のような波の浮彫りを施し、その上に体をくねらせて顔を真と面に向けた龍の透し彫りがみられる。すなわち、「波に龍文」で、木鼻(大仏様系)の獏鼻と共に、正面の彫刻に人々の目を引きつける構図が心憎く感じられる。
(3)金沢城石川門続櫓
 石川門は金沢城搦手口にあたり、一の門(表門)、二の門(櫓門)、渡り櫓(多聞長屋)、隅櫓、太鼓塀より構成され「内桝形」(「軍詞之巻図解」)の門である。屋根の鉛瓦葺、櫓・塀の腰廻りに用いられている海鼠壁、石落しのある唐破風の出窓、平面の形から菱櫓ともいわれる二階二重の隅櫓などに特徴がみられる。現在の遺構は、唐破風の出窓、武者窓など、宝暦大火後に立面図の変更があった(「御城建物起絵図」)。なお、天明八年造営の石川門続櫓の棟札に、御大工頭として「清水次左衛門藤原峯充/清水多四郎藤原軌克」とあり、御大工五人の名前も記されている。

 清水峯充の業績一覧


近代能楽史料としての『三百年祭記事』二種

金沢大学文学部教授 西村 聡


 昭和の初めに刊行された『石川県史』全五編は、第貳編・第参編の藩治時代を中心に、詳細な能楽史記述を各章「社会種々相」や「儀式慣習」の章に挿入して、地方能楽史研究の基準を早くに示したことでも再評価されてよいであろう。編者の日置謙は明治四十四年(一九一一)創刊の『能楽時報』の主筆を務め、大正十年(一九二一)刊の名高い『松風余韻』に「加賀宝生の沿革一般と佐野吉之助君の地位」を書いている。地元能楽界に精通した人の手になる通史として、『石川県史』は地元で繰り返し参照されてきただけでなく、地方の事情に広く目配りをした全国版の通史の記述はどの分野でも極めて困難なため、たとえば第貳編の三年後に刊行された野々村戒三著『能楽古今記』(春陽堂刊)中の「地方能楽篇」などに第貳編の成果がそのまま取り込まれた事実があり、取り込むに足る『石川県史』の水準と取り込んだ野々村の見識には、私たちも折々に振り返り、立ち戻って、能楽史記述を継承し、更新していく必要があると思われる。
 その『石川県史』では、明治維新以後の近代を第四編に取り扱うが、第四編には能楽史に関するまとまった記述がなく、わずかに明治五年(一八七二)展覧会余興の舞囃子(金沢神社奉納)、同二十四年金沢開始三百年祭並びに三十二年旧藩祖三百年祭余興の能楽(尾山神社奉納)、同三十五年尾山神社昇格奉告祭の神事能、同十二年並びに四十三年前田家本郷邸行幸啓の際の演能に、切れ切れに言及するのを見いだすばかりである(展覧会の例は「勧業一般」、残り五例は「旧藩祖の余光」の節)。しかし維新前後の一時期を除いて、石川県内の能楽が、記述すべき内容を持たなかったわけではない。明治三十四年の金沢能楽会の設立を始め、藩政期とはまた性質の異なる隆盛の歴史を、日置謙自身が共に歩んだことは、右の「加賀宝生の沿革一般と佐野吉之助君の地位」において、全三十七頁中、十三頁を維新後に当て、佐野吉之助の足跡をたどる筆致の親しさにも推察される。
 日置謙は自分の目や耳で直接見聞した事柄を、県内近代能楽史の材料として豊富に蓄えていたはずであるが、それらを駆使して藩治時代のように詳述することは、佐野吉之助追悼の書以外には、特に試みなかったらしい。同時代のことは知る人も多く、まだその必要に迫られなかったとも言えるし、歴史を対象化し、材料を選択するむずかしさを、当然同時代に対しては日置謙も感じていたであろう。ちなみに、『石川県史』第参編と同じ昭和四年(一九二九)に刊行された『稿本金沢市史』風俗編第二(和田文次郎編)も、「廃藩以後の能楽」の節(二頁)を金沢能楽会の設立までで閉じている。明治維新から金沢能楽会の設立を経て昭和の戦後に至る近代能楽史の全体が、ようやく県内通史記述の範囲に収まるのは『石川県史現代篇(2)』の刊行された昭和三十八年のことである。ただ『現代篇』はその後の続刊分を含めても、能楽に振り当てられた頁数が少なく、日置謙執筆時に比べて充実したとは認めにくい。日置謙に続く能楽史研究の業績は、梶井幸代・密田良二『金沢の能楽』(昭和四十七年刊)の出現を、さらに待たねばならなかった。
 さて『石川県史』第四編が取り上げた明治の能楽行事六例の内、本稿では金沢開始三百年祭と旧藩祖三百年祭の二例について、石川県立図書館所蔵の資料を用いて、能楽行事の具体的な内容と資料の価値を明確にしておきたい。『石川県史』では二例とも祭事の余興に能楽が行われたと記すのみであり、拙稿「金沢能楽会の百年」(『金沢能楽会百年の歩み』下所収。平成十三年刊)では、『北陸政論』『北國新聞』等、地元新聞の記事に基づいて記述するほかなく、とくに金沢開始三百年祭に関しては肝心の番組が把握できていなかった。旧藩祖三百年祭の方は複数の資料が入手でき、主として『北國新聞』の記事によって、いくらか具体的な紹介が可能になったが、このほど両者とも行事の全体を記録した『金沢開始三百年祭記事』『旧藩祖三百年祭記事』が存在することに気づいたので、本欄を借りて拾遺の報告を行うこととする。  まず明治二十九年(一八九六)、上森捨次郎発行の『金沢開始三百年祭記事』は本文七十二丁の活版冊子であり、趣意書の引用、規約条文の掲出に始まり、二十丁余の醵金者名簿や会計報告・残金処理規程を載せ、また博物館の展示物を解説したり、市中各町の景況を報じている。この祝祭は文禄元年(一五九二)に藩祖前田利家が尾山城を改修して金沢城を築き始め、市街を開いてから三百年に当たることを記念して、明治二十四年の十月十一日から十五日までの五日間、藩祖を祀る尾山神社を式場に挙行された。なお『記事』中には、「開始」と「開市」の両表記が混在している。
   『記事』によれば、五日間の祝典は次のような次第で進行した。
【十一日】祝砲・祭式・幣帛典供使祝詞・稲垣委員長告文・岩山県知事祝詞・能楽・和式騎馬・幌引騎馬・競馬・撃剣・祝宴・余興(烟火・角力)【十二日】能楽・和式騎馬・幌引騎馬・競馬・余興(烟火・角力)【十三日】神輿渡御・備押式・行軍式・和式騎馬・幌引騎馬・競馬・余興(烟火)【十四日】神輿渡御・行軍式・余興(烟火)【十五日】余興(烟火・手踊)
 『記事』とは別に「一目瞭然加賀金沢開始三百年祝祭各町賑ひ聞取番附」と題する一枚の刷り物(昭和十二年加陽探花房主人整理・石川県立図書館蔵『尾山神社聚英』所収。『石川県史』第四編所掲)もあり、併せて参照すると、騎馬・競馬・備押式・角力は出羽町錬兵場で行われ、錬兵場と卯辰山では烟火(花火)が打ち上げられた。烟火・角力・手踊の三つは余興と明記され、能楽・競馬・撃剣等と区別する意識が見て取れる。もちろん祭式は知事祝詞の後、参列者が順次礼拝し、御酒と菓子を振る舞われたところで閉じ、招待者は金谷館へ移動しているから、能楽以下は祭式の枠外にあり、『北陸政論』十月十三日記事が「三百年祭余興として尾山神社に能狂言の催ほしあり」と報じたとおり、実質は他の余興と変わりない(八年後の『旧藩祖三百年祭記事』では能楽も余興の一つに数えている)のであろうが、
○能楽ハ祝典ノ前式トシテ第一日ノ払暁ニ翁一番ヲ舞ヒ始シメ祭式ノ畢ルヲ待チ夫レヨリ間断ナク舞ヒ了レリ狂言六番ヲ合セテ十八番ナリ
と書かれているように、「翁」を祝典の前式として奉納し、祭式終了(午後一時)後及び第二日の行事の核となったこと、そして参拝者の動員に大きく貢献したであろうことは、幕藩体制下の式楽的性格をほうふつとさせる。
 二日間の演目は次の十八番であった。
【十一日】翁・高砂・田村・草紙洗・是界・羅生門・岩船・張蛸・文荷ない・三人片輪
【十二日】枕慈童・俊成忠度・黒塚・望月・猩々・八幡前・杭カ人カ・米市
 また出演者は各役、次のような顔ぶれであった(出演順)。紙幅の制約により、演目別には示せないので、出演回数の多寡にかかわらず、氏名を列記するにとどめる。
《シテ方》越澤太郎(弥太郎か)・小竹才六・木村金太郎・波吉甚次郎・相馬勝之・井上吉太郎・佐野吉之助・高木秀綱
《ワキ方》竹田與八郎・藤田政次郎・竹中俊太郎・谷文太郎・水野太右衛門・殿田音次郎《笛方》藤田多嘉蔵・大浦嘉久太郎・磯野政勝・中島勇吉・箕谷九六・藤田又八・小幡和平・本保全儀《小鼓方》後東晴一・寺田次作・三田村定形・湯浅勇三・谷眞澄・大野定一・藤井準《大鼓方》飯島佐之六・岩上茂平・河村正之・小杉了祐・才田(斎田)千十二《太鼓方》北島政厚・正木九八・中林兵次・村田長通・辰巳孝太郎・竹内與五平《狂言方》大桑十左衛門・小野貢次・中村藤造・大(大場の誤り)幸九郎(「岩船」の「笛中村兵次・太鼓藤田又八」は「笛藤田又八・太鼓中林兵次」の誤り)
 この内、波吉・相馬・竹中・藤田・後東・湯浅・飯島・小杉・斎田(敷村)・中林・辰巳・竹内・中村・大場らは、藩政期から続く御手役者(専業)や町役者(兼業)の家柄、あるいは彼らの古い弟子筋に当たる。明治維新後、藩の扶持を離れた役者たちは、次第に能楽界から遠ざかり、上京・移住する者も相次いだ。地元御手役者家の両雄、波吉甚次郎も明治十九年に上京、一方、九世諸橋権之進は維新後、相馬勝之と改名し、小竹・佐野ら次代の担い手を育成することに晩年の情熱を注いでいた(二十八年没)。佐野吉之助が私財をなげうって舞台を建設し(三十三年)、金沢能楽会設立(三十四年)の拠点とするのはまだ十年ほど先のこと、しかし、右出演者中、傍線を引いた人々は、間もなく石川県能楽会(二十六年設立)に結集する。そのように新旧の勢力が交替する過渡期にあって、金沢開始三百年祭の能楽には、両勢力が総力を挙げて取り組んだ様子がうかがわれる。祝祭講員中の能楽担当主任九氏には、三田村・竹中・後東の三楽師が含まれ、彼らが番組作りの実務を請け負ったと思われる。
 明治二十四年の金沢開始三百年祭とその能楽は、二十二年の東照宮関東入国三百年祭とその能楽を当然範とし、二十七年の富山開始二百五十年祭とその能楽に影響を与えたはずである(実際、金沢から楽師十五名が招請された)。そういう広がりの中に位置づけるとともに、定例化する封国祭(前田利家の入部を記念する祭)や二十六年の前田慶寧贈位慶賀祭、三十二年の旧藩祖三百年祭、三十五年の尾山神社慶賀祭、と打ち続く尾山神社能楽史の流れに注目する必要もあろう。全国的な能楽復興の傾向は、明治三十年代に入る頃から漸次鮮明になるが、金沢でも旧加賀八家に新興富裕層が加わり、近代能楽史の始まりを強力に後押しした(拙稿「明治の能楽復興とその地方展開」『文学』第3巻第5号、平成十四年)。その象徴的な場所が尾山神社であった。
 今度は明治三十二年四月二十七日から五月三日までの七日間、やはり尾山神社で挙行された旧藩祖三百年祭について『旧藩祖三百年祭記事』(三十五年、佐久間龍太郎発行)から知られる事柄を略記しておこう。祭典は祭式・神輿渡御・時代展覧会・余興・宴会の五部に分けて記録してある。余興は尾山神社と出羽町錬兵場等で、毎日の煙火のほかに能楽・競馬・演武(弓術・剣術・柔術・鑓術・居合)・相撲が行われた。能楽は二十八日午前五時の「翁」に始まり、翌日も合わせた二日間で能十番(及び祝言一番)、狂言六番が演じられた。初日の番組は『金沢の能楽』に掲出してあり、本稿では省略する。同書には出典を示さないが、著者の梶井氏が金沢市立図書館に寄贈した「金沢の能楽参考文献目録」(手書き)を見ると、「旧藩祖三百年祭之記/尾山神社」と記されていて、『記事』に類した資料に依拠するようである。同書はまた番組から、「翁」「高砂」「融」を舞った佐野吉之助が能楽界の中心的存在になりつつあることに注目している。東京へ出た五世野村万造が番外に狂言の奉納を許された事実にしても、それを「特筆すべきこと」と同書に見なす理由は分からないが、万造ら上京組を当てにする必要がなくなり、金沢在住の新世代が主体となって番組を構成できたことに意義を見いだすべきであろう。佐野・小竹らの師、相馬勝之はすでになく、波吉甚次郎もこの度は帰郷していない。
 私見ではさらに次の二点も注目されてよいと考える。すなわち『記事』中、万造の追加に触れた前文に、四月二十九日の能楽には前田侯爵(利嗣)が観覧する予定であったのに、宴会に出て時間の都合がつかず、令嬢・生母のみの観覧にとどまったことが関係者を落胆させたとし、「蓋シ能楽ハ旧藩の特粋トシテ夙ニ天下ニ名ヲ得シモノナルヲ以テ数多ノ余興中格別ニ重キヲ置カレシナリ」と述べて、日清戦争前後から高揚する「特粋」意識がここにも看取できること、それから急の追加は万造の狂言だけでなく、今様能狂言や加賀万歳も賑わいを添えたと記してあり、明治二十年代後半に金沢から京都へ移住した今様能狂言の泉祐三郎一座が、三十年代にも金沢に来演した形跡が知られること、以上二点を加えて、同『記事』を金沢における近代能楽史の有力資料と評価したい。


石川県史だより 第四十三号
平成16年2月16日発行
編集 石川県立図書館史料編さん室
県史編さん班
発行 石川県立図書館
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