石川県史だより 第44号 平成17年3月

目  次
城下町金沢の火災−近世期と明治期−
五味 武臣(金沢大学教育学部教授)
加賀藩相州鷹場について
吉岡 孝(國學院大學兼任講)

城下町金沢の火災−近世期と明治期−
金沢大学教育学部教授 五味 武臣

一 はじめに

 筆者はかって金沢の明治期と昭和六〇年代の火災について比較研究をしたことがある。−北陸経済調査会総合調査報告書『防災都市づくり総合報告書(その二)』一九八六年三月− 北國新聞記事を資料として明治二十六年から三十七年の県下で発生した火災の出火原因、規模(焼失戸数、範囲)などについて検討した。これによると、後述するように、火災の発生は三〜五月、十一・十二月に集中しているが、焼失戸数が五〇戸以上に及ぶ大火は三〜六月の春先から初夏にかけて生じている。金沢の気候、都市構造、用水路や道路、屋根材との関連が指摘される。
 また、平成十三年度には当時森山町小学校勤務の小林郁代氏が金沢大学大学院教育学研究科の修士論文として「城下町金沢における火災の地理学的研究」を作成している。歴史地理学的観点から「金沢城下の火災の実態、火災と住民生活、都市構造との関連」を追及したものである。氏の研究によると、近世期を通してお城や城下町のほとんどを焼き尽くすような大火が発生しているが、これら大火発生を契機として、城郭、用水開発、城下の街区改正、消化体制、法整備などが進み、結果として近世後期には火災の規模縮小が進展している。
以上のような近世期から明治期にかけての「城下町金沢」の火災の実態を報告するとともに若干の金沢の都市構造、まちなみ景観、今後の金沢研究などに関する私見を提示したい。

二 近世期の火災

 近世期における焼失戸数の推移:
図1近世期の年別焼失規模別火災『加賀藩史料』『石川県災異誌』より作成 小林氏は「加賀藩史料」や『石川県災異誌』などを資料として近世期約二五〇年間の金沢城下における焼失規模別火災の推移を調べ、図1のようにまとめた。同図は横軸に年次を取り、縦軸には焼失戸数(対数目盛)を取っている。これを見ると実線で示す回帰線で示されるように焼失戸数は幾何級数的に減少している。近世前期には寛永八年、同十二年に大火があり、寛永九年の辰巳用水(御城水)開削、十二年の大火後には城下の屋敷替えが行われている。

図2近世期の月別火災焼失戸数『加賀藩史料』『石川県災異誌』より作成  出火及び延焼:
図2は年間の火災の発生を月別に見たものである(図1のデータを使用)。焼失戸数別に見ると、旧暦二、三、四月に集中し、しかも焼失戸数も大きい。十月から一月にかけてはほとんど発生していない状況にある。データの中には約半数の火災について風に関する記載があり三、四月に集中し、ついで七月に焼失戸数の大きい火災が多い。大風、南風、発生が春先の四月、五月、八月などわが国の日本海側地域に特有なフェーン現象が発生していたとも見なしうる。
 焼失戸数に関係なく年間の出火を月別に見ると(鶴村日記に見る月別火災発生件数 図省略)、大規模火災がほとんど見られない冬季(十二月から四月)に一二〇件のうち六三件が発生していることから見ても、金沢における大火とフェーン現象との関連が指摘されよう。


 出火原因:「加賀藩史料」に記載された出火原因は合計八件にとどまるが、六件が「放火」であり、一件「火の不始末」、一件「たき火の火移り」となっている。「鶴村日記」では一二〇件中一六件について出火原因が記載され、炬燵(酒に酔い夜着を炬燵江踏込申候)が四件、火の不始末(餅搗き跡火不仕舞など)五件、放火三件、蝋燭(神棚、手燭、仏壇)三件、失火、台所などとなっている。これらに見るように、放火を除いては暖房、照明、炊事など火を使う生活様式に起因する。そして暖房が加わる冬季に出火が多発しているが、大規模な火災には至っていない。この点でも金沢の冬季の気候との関連を窺わせるものがあるのではないか。すなわち金沢の冬季は十一月末から曇天が続き、多量の降積雪を見るとともに湿度が高い。このような状況ではたとえ出火したとしても近隣へ燃え移ることは少なく、屋根まで抜けた火勢も屋根雪によって阻まれ、火の粉による延焼をも小さくするのではと思われる。さらに後述のように屋根材はほとんどの家屋が、板葺き屋根であったことから板が湿気を含み燃え上がることが少なかったであろう。

 出火の地域的差異:出火場所を城、武家地、町人地、寺社地に分けて先述の「鶴村日記」の火災の記述のうち出火場所が特定できる七一件についてみると、城では三件(四・二%)、武家地では一四件(一九・八%)、町人地四六件(六四・八%)、寺社地八件(一一・二%)となっていた。「鶴村日記」は一八〇七年から一八三七年の三一年間にわたるので、これによって近世期全般を見られるかどうかは別途検討を要すが、最も出火の多いのが町人地の中の地子地(含相対請地)三五件(四九・三%)であり、ついで本町一一件(一五・五%)であった。当時の町地と武家地の面積比は二三対七五であった(田中喜男一九七六)ので面積に比して町人地での出火が多いが、戸数から見ると差異はないといえよう。

図3卯辰山来教寺より出火の延焼図加越能文庫「金沢焼失図」より作成
 延焼の事例:火災が大きくなる要因として強風がある。図3は金沢市立図書館近世史料室蔵の「金沢焼失図」を元に享保年間の「加州金澤城下町割正極之大図(写)」から作図した。同図の断り書きは「宝永七庚寅年三月十四日暁丑ノ中刻 卯辰山西養寺ノ下、来教寺より出火 風、山瀬ツヨク大火に成後北風ニ替り又西風ニナル十四日五ツ半ニ焼留ル」となっている。旧暦三月十四日深夜午前三時頃に出火し、午前九時に鎮火した。火元は卯辰山中腹にある来教寺で、卯辰山から吹き下ろす強い風(山瀬)にあおられ延焼し、風向の変化とともに風下に当たる南東、北西方向に火勢は広がった。延焼範囲を見ると北国街道沿いの町人地が多く焼けているが、南では寺社地を境とし、西では浅野川および武家地、北西では武家地、北では武家地となっている。北西の武家地では城下絵図を詳細に検討すると焼留り線は上級武士の屋敷地(塀で囲まれていたと思われる)となっている。他の延焼図(ここでは省略)でもこの例に示されるように一般に武家地より町人地での延焼が多い。しかも気象のうち風方向と、強さによって延焼の状況が決まる。焼留りは道路、川、明地などの空間にあるが、塀に囲ま れた上級武家地にもあるようである。

 大規模火災発生の地域的差異:金沢城下の近世期を通した焼失地域が特定できるものについて図化してみると(図は紙面の関係で省略)、以下の地域に集中していることがわかる。
犀川大橋沿い地域:大橋沿いの町人地で木戸の内外ともに
北国街道尾張町沿い:町人地、現近江町市場付近
浅野川沿いの城下:堀川町、横安江町などの町人地
浅野川大橋以東の北国街道沿い:町人地を中心に一部寺社地
小立野台地上の寺社地
浅野川上流左岸:材木町など町人地
 以上のようにいずれも町人地で大規模火災が発生しているが、町人地でも犀川大橋から浅野川大橋にかけての北国街道沿いの町人地(商人地)では大火が生じていない。大火が生じている地域には職人が多く住む職人町、下級武士地(多くの場合塀を持たず境界は生け垣、もしくは棟割り長屋)、寺社地が卓越している。寺社では年間を通じて蝋燭、灯明など火を使うためであろうか。
 小林氏は消火(消火組織、消火方法)、防火(防火組織、水利、明地)などについても考究しているが、ここでは割愛する。

三 明治期の火災

 明治期の金沢の火災に関して北國新聞記事を資料としてまとめてみた(表省略)。これによると、例年三、四、五月の春先と十一、十二月に多く見られるが、春先の火災は農村部に多く、初冬の火災は市街地に多い。出火原因では農村部で取り灰の不始末、焚き火や囲炉裏の飛び火、蚕室の暖房(炭火)など生産活動や生活に根ざすものが多いが、市街地ではランプ、あんかなど暖房器具や家内工業の火の不始末などが多くなっている。三三件の火災で風に関する記載があるものは二〇件ある。うち「暴風」、「激し」、「強風」の記載があるのも一四件で、うち七件が四月、五月に発生し、十二月三件、七、八、九月四件となっていて風向、発生時期から見てフェーン現象との関連を窺わせる。一方で「微風」、「風なし」は六件であり、晴天が続く五月六月に四件となっている。一四件について焼失戸数から見ると、上金石の三七二戸(明治二十九年八月)、河北郡八田村の二〇七戸(二十九年七月)、上伝馬町六五戸(三十三年十二月)などが大きい。一方無風状態で大火となったのが近江町の二五〇戸(三十七年六月)で、ついでは有松町の一五戸(三十二年三月)となっていて、近江町の場合を除けば概して焼失規模は小さい。
 水利の便に関する記載のある記事は一五件で、「水手寄悪しき」火災は一〇件、水手良好な火災四件、他の一件は「水利なし」とするものであった。そして風と水利との関連を見ると、風が強くて水利の便が悪い上金石の場合には三七二戸が焼失している。このような状況では一四四戸、五三戸の焼失例がある。風が強くても水利の便が良い場合には一二戸、六五戸の焼失に留まっている。また風がなくても水利の便が悪い場合にも大火となり、近江町の例のように二五〇戸が焼失している。
 この時期の明治二十六年の記事「市内下堤町辰巳用水より防火用水一九積引水」、「同石浦町辰巳用水より一九積引水」、「高岡町鞍月用水より防火用水」などに見られるように、市街地を流下している農業用水から防火用水を水利費を払って確保している。しかし、辰巳用水と鞍月用水とでは防火用水の機能に大きな相違がある。それは辰巳用水が市街地より上流域で水田を灌漑しているのに対して、鞍月用水では市街地より下流域の水田を灌漑している点である。辰巳用水では春先の耕作期に上流でほとんどの水を使ってしまい、下流の市街地には水が行き渡らない。この春先の四月五月には前述のように最も火災が発生しやすく、フェーン現象の発生頻度も高いのである。
 明治二十八年の記事を見ると、火災保険を扱う保険会社が出現し、火災のたびに加入者と非加入者の焼失後の生活設計に歴然とした格差が生じるに及んで、加入者が急増したようである。しかし、中には保険金を目当てに放火を企てるものも現れるなど、いつの世にも不心得者はつきないようである。
 明治三十五年の「北国の大火」と題する記事には、北陸の大火が春夏に集中し、その原因を「全く気候の関係たるや明らかなり」と断じている。この対策として「気候はいかんともする能わざる」が、「建築材料などはもっともなしやすき改良なり」としている。このためには行政が「建築制限規則、建築命令、道路の拡幅、火防水路の開削など」を率先実行することであると主張している。ところが明治三十六年に至っても「石川県にてもかねて家屋制限法を設定せんとし、内議を試みつつあるも、なにぶん多大の費用を要し実行上最も困難を告げ、躊躇をなしおれる」状態であった。ちなみに家一件を土蔵造りにするのは一二〇〇万円、屋根を瓦葺きにするのには最低一二〇万円を要したという。
 次にこの間の火災の事例と家屋制限についてみてみる。新聞記事には大火による焼失範囲や火元、出火原因、消火活動のほか町割の略図も掲載されているのでこれらも使用した。
図4市内森本町大火(明治26年9月)
(1)市内森本町大火(明治二十六年九月)
 九月十四日二〇時頃火元の家庭でランプを石油函の上に落としたことから出火、図4に示した範囲が焼失。全焼四二棟、土蔵三、納屋四、半焼四棟で三時間半後に鎮火。消防水利の便が悪く浅野川からポンプを連結して導水した。なお火元と延焼方向とから北風があったであろうと推測される。

(2)河北郡八田村大火(明治二十九年七月)
 七月二十八日二四時頃納屋の取灰より出火、折からの激しい南風にあおられて村役場、寺社四、家屋二〇七戸を焼失して午前四時頃鎮火。潟縁に位置していたため家財道具などは船で湖上に避難。

図5上金石町火災(明治29年8月)

(3)上金石大火(明治三十二年八月)
 八月十八日二〇時半頃ランプの落下から出火し、折からの激しい西南風によって四方に燃え広がり、一四町で家屋に三七二戸、納屋三二棟、寺院二、学校一、その他三を焼失した。加えて消火活動のため潰家一二、潰納屋一二棟があった。市街地全体が砂丘上にあり、消防水利が悪く、海上の波浪高く海岸への避難ができなかった(図5)。

図6市内安江町大火(明治32年4月)

(4)市内安江町大火(明治三十二年四月)
 四月十一日四時三〇分頃安江町住吉市場の製造業者からの失火により一一八戸余りを焼失し、七時頃鎮火した。四方に延焼していることから(図6)風は弱かったようであるが、町内を流下している辰巳用水が春先の江浚いで通水を停止していたため水がなく大火となった。市内八百物の八割を扱っていた同市場は機能を停止した。

図7市内近江町の大火(明治37年6月)

(5)市内近江町の大火(明治三十七年六月)
 六月三日二三時頃の下近江町の商家より出火(ランプの消し損ない)。風はなかったが、農耕期のため辰巳用水には一滴の水もなく消火できなかったため、全焼二五六戸、半焼二二戸、土蔵七棟、納屋一〇棟、神社一銀行二を焼失する大火となった(図7)。

家屋建築制限の諭示、道路開削

 この近江町の大火を契機に県では金沢市に内訓を発し、これを受けて金沢市では次のような諭示を発した。「今回近江町等火災の善後策として施設すべき事項は多々有之べきも就中道路改設及び屋上の制限を肝要と認め候条、此際上下近江町青草町等の建物は道路側よりも少なくも一間の距離を保ちて建築し、その屋根は必ず不燃物質をもちゆべき旨内訓の次第も有之につき、右趣旨に基づき防火設備に勤めらるべし」である。
 この結果、市会では尾張町から武蔵が辻での道路を開削することとし、幅員五間(九メートル)延長二三四メートルの市姫通りを開削した。ただし瓦屋根に関してはこの後も遅々として板葺き石置き屋根から瓦葺き屋根に転換しなかったようである。
 以上明治期の火災についてみてきたが、出火原因では人間の火気取り扱い上の不注意といった人為的要因が基本的である。この出火を大火にする要因として風速・風向・湿度などの気候要素と消火活動の際の水利の便といったものがあるといえよう。また、防火対策として道路の拡幅による空間の確保、既存の農業用水の都市用水への転換などとともに近世期には見られなかった家屋建築について土蔵造り、瓦葺き屋根への転換の奨励など新たな施策が出てきている。

四 屋根材と延焼

 近世期、明治期を通じてみてきた中で屋根材と延焼、気候要素との関連が筆者には今ひとつ納得できない点がある。それはお城の鉛瓦を用いた真意はどこにあったのだろうか。鉛瓦がお城全体に用いられたのかもしくは石川門、三十間長屋など一部の高層櫓にだけ用いられたのであろうか。瓦と積雪との関連はどうなっているのだろうか。城下の武家屋敷や大店商家などの屋根材は瓦だったのだろうか。一般の町屋の屋根材は何であり、屋根のまちなみ景観はどんなであっただろうか。金沢で使った瓦の生産地は何処であろうかという点である。
 近世期、明治期にかけての屋根材に関する資料等を提示しながら、問題提示を試みたい。

 『農業図絵』(日本農書全集 二六 農文協)の一月の項には「金沢城下の正月風景と田畑の肥取り」から始まって城下の東のはずれ「金腐川を渡って農村へ」までの北国街道に沿った城下の正月風景が描かれている。西端の有松付近では藁葺きの農家と竹薮、松の並木が描かれている。城下に近づくにつれて藁葺き農家が混み合ってくるが、なかには石置き屋根の商家も散見される。街道には野菜や藁束を持ち肥桶を担いだ農民が城下に向かっている。ついで大橋の木戸の手前の神明宮あたりでは石置き屋根の商家が立ち並んでいる。大橋では板葺きもしくは瓦葺きの商家が立ち並び、魚や野菜、桶などを売っている。片町から香林坊にかけては石置き屋根の大店が並び、店の裏手には土蔵や立派な露地庭が見られる。遠望できる城内は松柏が鬱蒼と茂り、瓦葺きの櫓や建物が見られる。ついで現在の南町から武蔵が辻あたりでは大店が建ち並び当時の中心街となっている。屋根は瓦葺きであろうか、石置き屋根は見られない。このような景観は橋場町まで続く。大橋を渡れば卯辰山の山腹に寺社が建ち並び、浅野川に沿って東の茶屋街が軒を並べている。さらに東に進むと石置き屋根や藁葺きの商家も見られるようになり、城下と在の境である金腐橋に至る。在の家屋はすべて藁葺きとなっている。
 宝永年間頃の金沢城下における屋根材は、農村部では藁葺き屋根(大唐稲藁、三から四年で葺き替え『耕稼春秋』)であった。城下では板葺き石置き屋根が大半で、大店で軒先だけ軒瓦を使用したり、裏手の土蔵を瓦葺きにしている。武家屋敷では板葺き石置き屋根もしくは瓦葺きで、土塀や屋敷門は瓦葺きである。城郭については特定できない。
 文化年間(一八〇四〜一八一六)に描かれたとされる「金沢城下図屏風−犀川口町図−」によると、犀川大橋から片町に至る北国街道筋の大店を中心にこれに並行する河原町、大工町の町並み及び道筋が描かれている。屋根材に注目すると、街道に面する大店は一、二軒の赤瓦葺きをのぞいてすべて板葺き石置き屋根となっている。裏手の土蔵は赤瓦葺きが多く、それに続いて立派な露地庭に樹木が鬱蒼と茂っている。大工町の通りではすべての家屋が板葺き石置き屋根となっている。

 「金沢城下図屏風−浅野川口町図−」では橋番所や露店などが描かれているほか町屋、神社、寺院、遠方に卯辰山の民家などが描かれている。しかし、屋根材が何であるかは民家の藁葺き以外は判断に迷うところである。
 以上に見たように、近世期の金沢城下は現在我々がイメージしている光沢のある黒瓦の町並みではないようである。だとすると大量に使用されている割板の材質、生産地、入手方法等今後解明すべき点ではなかろうか。また置き石も材質、生産地、入手方法などについても興味あるところである。
 ちなみにこのような板葺き石置き屋根の景観は、前述のように明治末に至っても見られたようである。田中喜男監修『写真と地図で見る金沢のいまむかし』(国書刊行会 一九九一)の七ページ「明治四十二年頃、卯辰山より金沢城方向を望んだ写真」によると、金沢地方裁判所や城内の建物をのぞいたほとんどが、板葺き石置き屋根である。なかには元藩士の家であろうか土塀と松の木のある庭をもった家が見られるが、これもまだ瓦葺きではない。同書二三ページには「明治末期、中川除町付近の風景」があり、板葺き石置き屋根がほとんどを占め、唯一瓦葺きの建物は竪町小学校のみである。河原には堤防は築かれておらず、紺屋の布干し場に使用されている。犀川には明治二十三年になって初めて架橋された桜橋が見える。
 以上見てきたように、金沢の歴史、伝統文化を深く理解するためには金沢の風土とくに自然環境との関連をよく理解する必要があろう。



加賀藩相州鷹場について
國學院大學兼任講師 吉岡 孝

はじめに

 江戸時代前期には、加賀藩は将軍家から関東において鷹場を与えられていた。鷹場とは主に鷹を使った狩猟を行う場をいうのであるが、当該時期においては、鷹狩は特に許された者しか認められていなかった。関東に鷹場を与えられた藩も、御三家など少数の藩に過ぎなかった。斉藤司「近世前期、関東における鷹場編成」(『関東近世史研究』第三二号、一九九二年)によれば、一代限りではなく、恒常的に関東に鷹場を与えられた大名は、ほとんどが徳川将軍家の血縁に当たる親藩であり、それ以外の藩は加賀藩の他には仙台藩(伊達家)・彦根藩(井伊家)しかなかった。この加賀藩が与えられた鷹場については、若干の指摘はあるが、その詳細は不明である。そこで本稿では僅かではあるが実態に迫ってみたい。なお加賀藩が関東に与えられた鷹場は、史料には「相州御鷹場」と出てくることが多いので、相州鷹場と記すことにする。実際には相模国と武蔵国に跨っている。

一 鷹場の拝領

 『相州御鷹場聞書』(金沢市立玉川図書館)という史料によれば、前田光高が幕府から相州鷹場を拝領したのは寛永十一年(一六三四)のことだという。それ以前の寛永八年に光高は「千勝様」(前田利次)等とともに相州に遊んだ。そこは間宮左衛門預りの鷹場であった。間宮は幕府の御鷹師頭であったから、光高は幕府の鷹場を借りて鷹狩を行ったのであろう。この時光高が宿泊したとされる相州鶴間観音寺周辺が、後に加賀藩相州鷹場になる。  光高はこの当時藩主ではなかったが、それでも鷹場を拝領したのは、以下の理由によろう。拝領の前々年の寛永九年十二月十三日、光高は徳川家光の養女大姫と婚約している(『加賀藩史料』第弐編)。大姫は水戸藩主徳川頼房の娘であり、寛永十年十二月五日に光高に嫁いでいる。つまり光高は将軍の義理の娘婿に当たり、この関係から鷹場を拝領したのであろう。このように拝領した当初は加賀藩というより光高個人に拝領した性格が強かったようであるが、この鷹場は次代の綱紀にも継承されている。  相模・武蔵国一四八ヶ村の村々を先述の幕府御鷹師頭間宮左衛門等が改めて、その村名を記した「覚」が、寛永十三年(一六三六)十月二十日に前田光高に与えられている(前記斉藤論文)。与えられたのは幕府鷹匠支配担当者であった老中松平信綱であった。実質的にはこの時点を以って加賀藩相州鷹場が成立したとしていいであろう。この時書上げられている村は、現在の神奈川県相模原市・綾瀬市・横浜市・川崎市・東京都町田市・多摩市・八王子市などに属している村々である。なお村数は寛文元年(一六六一)には一七一ヶ村、寛文九年には一九二ヶ村、延宝二年(一六七四)には二〇二ヶ村、元禄六年(一六九三)には二〇五ヶ村になっている(『鷹方覚書類 二』金沢市立玉川図書館)。これは鷹場の村々が分村した結果であって、新たに鷹場が与えられたわけではない。

二 狩猟の実施

 ではこの加賀藩相州鷹場において、狩猟はいつ実施されたのであろうか。表は『加賀藩史料』等で、相模国鷹場で狩猟が実施されたと思われる事例である。
 
『加賀藩史料』『鷹方覚書類一』から作成
年  代 狩猟当事者 将  軍 備  考
寛永19年(1642)   8月 前田  光高 徳川  家光 暇のみ
寛永19年(1642)  10月 前田  光高 徳川  家光  
寛文 9年(1669)閏10月 前田  綱紀 徳川  家綱  
寛文11年(1671)  11月 前田  綱紀 徳川  家綱  
延宝元年(1673)  11月 徳川  家綱 徳川  家綱  
 最初の事例は、寛永十九年(一六四二)八月十六日に、徳川家光が書院番頭池田長賢を使者に使わして、光高に放鷹の暇を与えたというものである(『加賀藩史料』第参編)。しかし実際に光高が鷹狩を実施したかは確認されない。なお同時に奥州仙台藩主伊達忠宗の許にも小姓組番頭安藤重元が使者に派遣され、放鷹の暇を与えている。関東における鷹場を持っていた外様の大藩二つに、同時に暇が与えられたわけである。
 次の事例においては、鷹狩が実施されたことが確認できる。寛永十九年十月七日に家光は老中阿部重次を使いにして、光高に狩場・浴場の暇を与えた(『加賀藩史料』第参編)。十月二十一日には光高は相州鷹場にいて、家光の使者書院番小堀正中を迎えている。光高は家光から鷹と菓子を給わっている。十二月一日光高は相州鷹場から帰り、家光に拝謁している。この時鶴を五隻献上している。
 次の事例は寛文九年(一六六九)閏十月十五日に前田綱紀が御鷹野に行く暇を給わったものである(『加賀藩史料』第参編)。同じ日に尾張藩主徳川光友も暇を給わっている。
 綱紀は十八日に江戸を出発、相州新戸村(神奈川県相模原市)に着いた。翌日から狩を始め、二十五日には道生山で猪狩を行い、猪一匹を獲ている。二十八日には森山で猪十匹・鹿二匹を仕留めた。十一月六日には八幡山で猪二匹・鹿四匹を獲ているが、鹿四匹の内三匹は生け捕りだった。同じ月の十日には、棒山で猪三匹・鹿二匹を仕留めた。猪や鹿は鷹狩の獲物ではないので、相州鷹場においては、鷹狩以外の狩猟も行われていたことになる。
 十一月十三日に綱紀は江戸に帰っている。十五日には綱紀は将軍徳川家綱に徳川光友・館林藩主徳川綱吉(後の五代将軍)と一緒に雁一双を献上している。なお鷹場に行く直前の十月十九日には、綱紀は将軍から鶴を給わっている。鷹場を媒介にして将軍と大名の贈答儀礼が行われていたわけである。
 寛文十一年(一六七一)十一月一日、綱紀はまた鷹場に行く暇を給わった。八日には綱紀は鷹場から使いを出して、雁や鴨を献上している。十二月一日には綱紀は「雁二」を献じている。その二日後の三日、綱紀は鶴を家綱から給わっている。
 最後の事例は延宝元年(一六七三)十一月に行われたものである(『鷹方覚書類 一』、金沢市立玉川図書館)。
 このようにみてみると、相州鷹場で狩猟が行われる場合は、ほとんどが十月以降ということになる。これは農閑期ということであろうか。また徳川将軍が鷹や鶴等を贈り、加賀藩では雁や鴨等を将軍に献上する。このような贈答儀礼関係が成立していたわけである。特に寛文九年から延宝元年に懸けては一年置きに狩猟が行なわれている。近世の大名は参勤交代で江戸と国許を往復しているわけであるから、江戸にいる時は、毎年行われていたことになる。この時期は狩猟が活発な時代といっていいであろう。しかし加賀藩相州鷹場は次の徳川綱吉が将軍である時期に返上されてしまう。

三 相州鷹場の返上

 『加賀藩史料』第五編では「参議公年表」を引用して以下のように記している。
 十月廿三日江戸。相模国御鷹場就被指上、彼場江津田権佐正移(割註)〔大小将番頭〕・山村安兵衛長昌(割註)〔大小将横目〕可被遣旨、壱岐を以被仰渡、翌日罷立
 この史料は元禄六年(一六九三)のものである。これによれば、加賀藩相州鷹場はこの年の十月に「被指上」つまり返上されたことがわかる。現地には「大小将」の津田正移・山村長昌が派遣され、処置がなされた。派遣を命じたのは奥村壱岐であった。ではなぜ返上されたのであろうか。やはり『加賀藩史料』第五編に掲載されている「重輯雑談」は以下のように記されている。
一、世風の転変今に不始思の外也。右の年冬に及、三卿方の鷹場武州・相州・上野等に有を被願て上る。定て老中よりの内意なるべしとの沙汰也。当国には暫御見合せ、井伊氏も被返上、甲府殿と当国計なりしに、戸田忠昌(割註)〔老中常国の御肝煎〕御相談にて、御願可然との事にて被仰上、御願の通になる。是は関東筋殺生御停止の趣と云御風儀を被受ての事と云々。甲府殿には霜月迄も不被上と云。是も後年被上たる成べし、不聞。移替事可知。各願済たるとて老中へ礼に被往も、使も有けるとぞ。
 この記述をみてわかるように、鷹場が返上された理由は、「関東筋殺生御停止」のためであった。これは有名な生類憐れみの令のことを指すのであろう。
 生類憐れみの令は五代将軍徳川綱吉が行った極端な動物愛護政策である。牛や馬・鳥類から魚介類に至るまで、広範な生き物が保護された。特に犬の保護は徹底され、東京の中野に広大な犬小屋が設けられ、そのため綱吉は犬公方と呼ばれたことはよく知られている。このような状況では鷹狩を行うことを公儀が喜ぶ筈はなかった。そのため不用になった鷹場が返上されたわけである。
 生類憐れみの令は広範に行われた公儀の政策であった故に、鷹場の返上は加賀藩に限られたものではなかった。ここで「三卿」と出てくるのは、普通いう「御三家」のことであり、尾張・紀州・水戸徳川家である。御三家は寛永十年(一六三三)にそれぞれ関東において鷹場を下賜されていた。それ以前は御三家の面々は将軍家鷹場で鷹狩を行っていたのである。
 御三家の鷹場返上は確かに加賀藩より先だったようである。元禄六年十月十日に水戸藩では老中阿部正武(武蔵国忍藩主)に鷹場を返上したい旨を申し入れている(『鷹方覚書類 二』、以下鷹場返上に関する記述はこの史料に拠った)。これは「尾張殿紀州殿」と申し合わせて「三家一様」のことであったという。翌十一日には「水戸殿」(水戸藩主徳川綱條)の指示を受けた水戸藩の藤井紋大夫から、先述の加賀藩の奥村壱岐にこのことが報せられた。水戸藩主がわざわざ報せてくれたのは、当代藩主綱紀の母が、水戸初代藩主徳川頼房の娘に当たるためではないだろうか。
 加賀藩ではこの報せを受けて自藩の鷹場も返上した方がいいと判断したようである。十月十五日には老中戸田忠昌(武蔵国岩槻藩主)に「今程殺生仕義無御座候」、今は殺生することがなくなった、生類憐れみの令によって狩猟による殺生が行われなくなったという理由で、鷹場を返上したいという趣旨の申し入れを行っている。
 翌十六日に戸田忠昌の家来松坂権右衛門から加賀藩に手紙が届き、「一人寄越してくれ」ということなので、早速人を遣わした。忠昌が会ってくれて、鷹場は返上するようにと伝えた。加賀藩の願は叶えられたのである。
 加賀藩では鷹場返上を認められた御礼に、老中などに御礼の使者を出している。使者を出した相手は大久保忠朝(肥前国唐津藩主)・阿部正武・土屋政直(常陸国土浦藩主)・牧野成貞(下総国関宿藩主)・柳沢吉保であった。大久保・阿部・土屋は老中であるが、牧野と柳沢は老中ではない。しかしこの二人は時の将軍徳川綱吉の館林藩主時代からの側近であり、側用人として権勢を誇っていたから、使者を出して置く必要があったのであろう。
 徳川家光の二男徳川綱重を祖とする甲府徳川家も、寛文元年(一六六一)以来関東に鷹場を拝領していた。先掲の史料によれば、甲府徳川家の鷹場返上は後年のこととされているが、前掲斉藤論文によれば、甲府徳川家の鷹場も、この元禄六年に返上されている。彦根藩の鷹場もやはり元禄六年に返上されている。生類憐れみの令の影響で、関東にあった各藩の鷹場は、元禄六年に一斉に返上されたと理解することができる。なお関東における仙台藩鷹場は、この以前の万治三年(一六六〇)に返上されているので、関東における鷹場は元禄六年に消滅したことになる。八代将軍徳川吉宗の代になると、関東において将軍家鷹場や御三家鷹場は復活するが、加賀藩相州鷹場が復活することはなかった。

おわりに

 加賀藩相州鷹場は、寛永十一年(実質的には寛永十三年)に成立し、生類憐れみの令の影響で返上される元禄六年まで存続し、実際に加賀藩主による狩猟も行われていたことは確認できたと思う。今後は鷹場に所属した村々の動向を検討していきたい。


石川県史だより 第四十四号
平成17年3月1日発行
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