石川県史だより 第47号 平成20年1月
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奥羽越列藩同盟の加賀藩遣使計画が頓挫した理由
東京大学史料編纂所准教授 箱石 大

遣使計画の挫折

ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール
戊辰戦争期に横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』(ぺりかん社刊『日本初期新聞全集』第13巻より転載)
 慶応四(一八六八)年七月上旬頃、奥羽越列藩同盟は、北越方面における軍事戦略の一環として加賀藩との連合を目論み、同盟諸藩を代表して仙台・会津・米沢・庄内四藩から選抜された使節団の派遣を実施しようとしていた。この加賀藩遣使計画は、日本史籍協会編『米沢藩戊辰文書』所収の「奥羽同盟列藩軍議書」にある「北越之所置」のうち「加州・紀州江使を馳せ連合致し、官軍ノ勢力ヲ殺キ候手配専用之事」との条項を具体化させたものであった。使節団一行は、当時列藩同盟の管理下にあり事実上開港されていた新潟港から出発する予定であった。ところが、実行寸前まで準備されていた加賀藩への遣使計画は、ある理由のために計画の変更を余儀なくされる。
米沢藩士長尾景貞の日記「北越在陣中日乗」(東京大学史料編纂所所蔵写本、維新史料引継本・Uほ―五四三―一)の慶応四年七月十四日条には、「先達而より宇佐美勝作(米沢藩士)新潟表江罷出居、仙・会・庄同道ニ而、加賀江使節として発足之積り候へとも、蒸気船無之候ニ付、異国人当港(新潟港)江参り候を幸ひ、右之帰り船江同船可致段、既ニ約定ニ迄相成候へ共、異国人彼是之反復を申唱ひ墓取らす困居候内、一昨十二日仙台より斎藤安右衛門(仙台藩士)当地江参り、只今仙台港江右(ママ)幕府之蒸気船五艘来舶ニ付、右舟ニ而加賀江出帆可致決評ニ相成」と、その内情が記されている。これによると、長尾と同じ米沢藩士の宇佐美勝作が、仙台・会津・庄内藩士らとともに加賀藩への使節として新潟を発足する予定であった (「北越在陣中日乗」同日条によれば、四藩から派遣予定の使者は、仙台藩が玉虫左太夫・荒井〔新井〕常之進、会津藩が長岡敬次郎・神尾鉄之進、米沢藩が宇佐美勝作・小田切勇之進、庄内藩が武藤半蔵である)。ところが、海路加賀へ向うつもりであったにも関わらず、彼らが乗船すべき蒸気船が無かったことから、たまたま新潟港へ来ていた外国人(名前が記されていないので、「北越在陣中日乗」に度々登場するスネルやガルトネルとは別人であろう)の帰航船に便乗することを一旦は契約するのだが、その外国人があれこれと約束を反故にするような主張してきたため、話が進捗せず困却していた。すると一昨十二日仙台より同藩の斎藤安右衛門が新潟へ来着し、現在仙台港に旧幕府の蒸気船五艘(慶応四年六月にいち早く江戸湾を脱走した長崎丸二番や、仙台藩が幕府から借り入れた洋式船のことを指すのであろうか)が来舶中との情報をもたらしたので、こちらの船を頼って、陸路仙台に赴き、仙台港から加賀へ出航することに評議決定したというのである。
つまり、列藩同盟が北越沿岸で自由に運用できる蒸気船を保有していなかったために、新潟港からの使節派遣は実行できなかったのである。

北越沿岸海域の制海権

 当時、列藩同盟は新潟港を実効支配し、米沢及び仙台・会津・庄内四藩が新潟に会議所を設置して共同で管理していたのだが、その一方で北越方面における列藩同盟の海軍力は皆無に等しかった。会津藩が旧幕府から借り受けた蒸気船順動丸は、慶応四年五月二十四日、越後寺泊沖で新政府軍所属の軍艦乾行と丁卯の攻撃を受けて自焼していた(「大日本維新史料稿本」)。加賀藩の海軍所があった能登の七尾港を根拠地とする新政府海軍によって、越後・佐渡沿岸海域における同盟諸藩の海上活動はほぼ制圧されるに至ったのである。
 幕末期、幕府と諸藩が競うようにして外国商人から蒸気船を購入した目的は、軍艦として海軍力を強化し、多数の兵員を迅速に輸送して陸軍部隊の機動力を高めることにあったが、同時に、政治活動を行なう人の移動や情報の伝達を円滑化させるうえでも蒸気船は大いに活用されていた(石井寛治『情報・通信の社会史』)。しかし、購入資金の調達や操船技術を持つ乗組員の確保は容易ではなく、どの藩でも簡単に蒸気船を保有できた訳ではなかったのであり、西国諸藩とは異なりほとんど蒸気船を持たない奥羽・北越諸藩では、新潟港を窓口とした武器の購入や外交工作に際し、迅速な運輸・交通・通信手段としての蒸気船を駆使して主体的な活動を展開することができず、購入した武器を北越沿岸に輸送したり、海路使者を他藩へ派遣したりするためには、例えば、スネル兄弟のような外国人がチャーターした外国商船や、偶然来航した外国船に依頼する以外には手段がなく、こうした不確実な外国船の来航に依存しなければならなかったという点で、列藩同盟の外交攻勢には限界があったと言わざるを得ないのである。
 その後、加賀藩への遣使計画が実行されたのかどうかは不明だが、恐らく渡航手段が確保できないとの理由による計画変更などで時日を費やしているうちに、七月二十九日になると新潟と長岡が新政府軍に占領されて、北越戦争が事実上終結してしまった結果、もはや加賀藩への遣使策自体の政治的・軍事的意義が失われ、自然と立ち消えになってしまったのではないかと思われる。

戊辰戦争期の傭船事情

 それでは、列藩同盟による武器購入や外交工作にとって頼みの綱とされた北越地方への外国船渡航の実情はどのようなものであったのだろうか。慶応四年正月二十五日、戊辰戦争の勃発に際して、英・米・仏・蘭・孛(プロイセン)・伊の駐日六ヵ国代表は局外中立を宣言し、旧幕府と維新政府が対等な交戦団体とされたことにより、旧幕府・維新政府ともに、諸外国から艦船を購入することや、兵員と軍需物資を輸送するために外国商船をチャーターすることは極めて困難な状況になった(石井孝『増訂明治維新の国際的環境』、保谷徹『戦争の日本史18戊辰戦争』)。このため自前の蒸気船を保有していなければ、海上軍事行動はもちろん、海上輸送や通信行為などにも多大な支障を来たすことになったのである。
 列藩同盟にとって、各国が局外中立を宣言している以上、新規に艦船を購入することは不可能であったから、武器の購入と輸送を合わせて隠密裏に外国商人へ依頼するか(この場合、同盟諸藩が直接外国船をチャーターするのではなく、表向きは武器を密売する外国商人が傭船を手配することになる)、たまたま来航した外国船の帰航時に使者を便乗させる以外に方法はない。しかも、英国公使は維新政府からの要請を受けて、戦場となっている新潟へ自国民が渡航することを禁止したので、この時点で新潟に公然と渡航できたのは、これを容認した孛・伊両国などの冒険的な商人に限られていたのである(実際には、英国公使の規制にも関わらず、英国商船もチャーターされ新潟に渡航していた)。
 このような状況下で、スネル兄弟のように同盟諸藩との交易を目的として北越地方へ渡航しようとする外国人たちが、どのようにして傭船を確保していたのかが次の問題となるだろう。当時の日本沿岸における外国商船の運行状況を知る手がかりの一つに、各開港場における外国船の出入港記録がある。本来、外国船の出入港を正確に把握するためには各国の領事報告にある出入港データを参照すべきであろうが、小稿ではあえて開港場の外国人居留地発行の外字新聞に掲載された外国船の出入港記事に着目したい。なぜなら、その出入港記事に多少不正確な内容が含まれていたとしても、当時日本との貿易や海運業に従事していた外国人たちが、商船の運行状況を把握し、自分たちの経済活動に役立てるために活用していたのは、こうした居留地発行の新聞ではなかったかと思われるからである。 戊辰戦争期に北越地方へ渡航した外国商船のほとんどは横浜から出航しているが、横浜外国人居留地発行の外字新聞に掲載された外国船の出入港及び港内停泊情報(数は少ないが傭船広告も掲載された)によって、多くの人々は外国船の運行状況を容易に知ることができたのであり、この情報を参考にして傭船を手配することも可能であったのではないかと推測される。さらに戊辰戦争期においては、日本在留外国人たちの関心事であった新規開港場である新潟への外国船の渡航状況についても、新聞の出入港記事によって知ることができた。さらにこれらの新聞は、定期航路を運航する船舶などによって上海・香港・ヨーロッパにまで送付され(近盛晴嘉『人物日本新聞史』)、広く日本情報を伝えることになったのである。

外国商船の北越渡航

 幕末維新期に発行された新聞を見るには、『日本初期新聞全集』(ぺりかん社)が現存する新聞の複製版を編年体で網羅的に収録しており非常に便利である。戊辰戦争期に居留地で発行された外字新聞も収録されているが、現存が確認されているものは極めて少なく、なかでも日刊紙はほとんど残っていない。『日本初期新聞全集』によれば、戊辰戦争期に横浜居留地で発行されていた外字新聞で現存するものは、ほとんどが隔週刊の『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』である。同紙は慶応元(一八六五)年に創刊された英字新聞で、週刊の『ジャパン・タイムズ』、日刊の『ジャパン・タイムズ・デイリー・アドヴァタイザー』に続くものであり(佐藤孝「地域社会と新聞」『シリーズ日本近現代史1維新変革と近代日本』)、月二回ほどヨーロッパ行きの汽船が出航する間際に発行された概括的な別冊号なのだという(蛯原八郎『日本欧字新聞雑誌史』)。
 それでは、『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』から、北越地方へ渡航した主な外国商船の情報を抜き出してみよう(以下、典拠とした同紙の巻号数のみを注記)。

露国商船コリア号

 慶応四年三月十六日(一八六八年四月八日、括弧内は西暦で表記、以下同じ)露国商船コリア(Korea)号(新聞表記はCoreaまたはCourier)が横浜を出港して新潟へ向っている(五巻六三号)。このとき新潟に渡航した外国船を日本側の記録から捜索してみると、長岡藩の河井継之助らが乗り込んだ船が該当する。このとき河井は、横浜で購入した最新式のガトリング砲を始めとする銃砲・弾薬を「兼て借入れたるス子ル所有の汽船」に積み込み、長岡藩士約一五〇人を率いて搭乗したのだという。つまり、スネルがチャーターしたコリア号を長岡藩が借り入れたものと判断できる。この船には、前桑名藩主松平定敬と同藩士約一〇〇人や、梶原平馬ら会津藩士約一〇〇人も同乗しており、三月二十三日、新潟港に入った(今泉鐸次郎『河井継之助伝』増補改版)。なお、同船には兄スネルも搭乗していたらしい(『会津戊辰戦史』、同書は三月二十六日新潟着とする)。新潟で乗客と積荷を降ろしたコリア号は、恐らく箱館に滞泊した後、四月八日(四月三十日)横浜に帰港している(五巻六五号)。

米国商船カガノカミ号

 五月六日(六月二十五日)箱館へ向けて横浜を出港した米国商船カゴノカミ(Kago No Kami)号(五巻六九号)は、弟スネルが搭乗して米沢・長岡藩への武器を運送したカガノカミ(Kaga-no-kami)号のことであろう。新聞紙上には箱館行きと記されているが、本来の目的地を秘匿したものと思われる。同船は、五月十日、米沢藩預所の粟島に立ち寄り、十二日、新潟に到着した(早川葉子「戊辰戦争期の新潟港の機能に関する一考察」『国史談話会雑誌』第二〇号、早川論文及び後掲田中論文の典拠史料はいずれも外務省外交史料館所蔵「外務省記録」である)。

英国商船アルビオン号

 五月二十八日(七月十七日)には、英国商船アルビオン(Albion)号が横浜を出港して新潟に向った(五巻七一号)。これはイタリアの蚕種商一行がチャーターした船であるが、イタリア公使は今回の新潟渡航に公的な性格を与えるため公使館書記官を同行させたという(石井前掲書)。このアルビオン号の新潟渡航については、横浜居留地発行の英字紙『ジャパン・ガゼット』(未発見)が紀行文を掲載しており、八月十日(九月二十五日)に至って、上海で発行されている英字紙『ノース・チャイナ・ヘラルド』が『ジャパン・ガゼット』の記事を転載する形で報道した(『国際ニュース事典・外国新聞に見る日本』1)。横浜・上海間の蒸気船定期航路によっていち早く情報が海外へと伝播したのであろう。
 この『ノース・チャイナ・ヘラルド』によると、アルビオン号は五月二十九日(七月十八日)横浜出港。六月二日(七月二十一日)箱館着。六月五日(七月二十四日)新潟に到着するが、同港が封鎖中のため一両日港口付近への停泊を余儀なくされ、しばらく佐渡に寄港した後、ようやく新潟港に入った。そこで一行は弟スネルと面会し、そのうち数人は兄スネルにも会っている。このとき弟スネルが相馬藩領である原釜の訪問を熱心に勧めたため、一行は帰途立ち寄ることを決めるのだが、その背景には新潟で七月三日に結ばれた弟スネルと相馬藩との洋銃売買の契約があった(早川前掲論文、田中正弘「武器商人スネル兄弟と戊辰戦争」『鉄砲伝来の日本史』)。 用務を終えたアルビオン号が新潟を出港したのは七月七日(藤原相之助『仙台戊辰史』)であり、七月十日(八月二十七日)早朝には仙台湾沖に達し原釜に到着した(早川・田中前掲論文では十一日原釜着)。二十四時間の停泊後、七月十一日(八月二十八日)出航し、七月十三日(八月三十日)正午には横浜へ帰港・投錨した。ただし、『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』(五巻七四号)では七月十四日(八月三十一日)箱館から帰港したことになっている。
 ちなみに、七月七日に新潟を出港したアルビオン号には、列藩同盟から密命を帯びて派遣された仙台藩士横尾東作・会津藩士雑賀孫六郎・米沢藩士佐藤市之丞らが乗り込んだ。彼らは商人に変装して横浜に密航し、幕府が通商条約を締結した十一ヵ国の駐日外交官に宛てた列藩同盟結成の正当性をアピールする通告文を配付するとともに、旧幕府海軍に越後への出動を要請する松平容保・板倉勝静・小笠原長行からの書状を榎本武揚に手交している。これに応じて、八月二十日頃までに仙台に赴くとの返書を榎本が書き雑賀に託したのは七月二十一日のことであった(『仙台戊辰史』『会津戊辰戦史』)。加賀藩遣使計画以外の外交工作は一応実行されたのである。

北ドイツ連邦商船ヴルカーン号

神奈川府知事東久世通禧の日記によれば、七月下旬、スネルの傭船と見られる孛国商船「ウヲルカン」号が、新潟で積み込んだ生糸・銅・米などの積荷を横浜港へ陸揚げしようとしたので、既に未開港場の新潟における外国人の密商行為厳禁を各国代表に要請していた神奈川府では、直ちにこれを差し押さえるという事件が起きていた(「東久世通禧日記」慶応四年七月二十四・二十六日条)。これは七月二十日(九月六日)箱館から到着した北ドイツ連邦商船ヴルカーン号のことであろう(五巻七五号)。
残念ながら、加賀藩へ派遣される使節一行が当初乗船する予定であった外国船の特定はできなかったが、外字新聞を手がかりとして、新潟陥落までに北越地方へ渡航した外国商船を検出してきた。表向きの出発地や目的地は箱館としていながら、実際には新潟を往復していた船も少なからず存在したことが分かる。しかしながら、この時期に新潟へ向った船は意外と少なく、同盟諸藩のために北越地方へ武器を回漕した外国商船の大半は弟スネルの傭船であったと見られる。結局、列藩同盟は、海軍力の面では、榎本率いる旧幕府艦隊に期待を寄せ、外国商人との交易や加賀藩遣使計画を含む外交工作に関しては、ほとんど弟スネルが手配する傭船に依存していたというのが実態ではなかったかと思われる。



石川県史だより 第四十七号
平成20年1月25日発行
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