石川県史だより 第48号 平成21年1月
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渡海の者どもあまた―近世初期北陸の人身売買事情
神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員 関口博巨

説経節と古文書で描く北陸社会像

上梶家文書
寛永19年 方々よりもらい人書上(H・24)『上梶家文書』
事実上の人身売買である「もらい人」の古文書。年端もいかない子供たちの売買の口入れ人は「かミゆい」や「たはこきさミ」など。
 中世から近世初頭にかけて行われた大衆芸能の説経節(せっきょうぶし)に、「人買物」と呼ばれる人買商人の話に題材をとったジャンルがある。説経の最盛期は十六世紀末から十七世紀前半。悲哀ただよう曲調にのせて語られたそれらの物語は、人身売買が現実に横行していた時代だからこそ、多くの聴衆の魂を震わせ涙を誘った。
 かつて水上一久は、中世の能登半島を日本列島のなかで最も人身売買の盛んな地域のひとつに数えた(『中世の荘園と社会』)。説経節の「をぐり」や「さんせう太夫」は、売られて流転する人間の苦しみを語った内容で知られているが、物語中での人身売買の主な舞台は、加賀・能登・佐渡をはじめとする日本海地域であった。
 本稿では、説教節を入口に近世初期における北陸社会の一断面を紹介する。
 まずは十七世紀前半に成立した説経節の正本(テキスト)から、「をぐり」前半の概要を紹介し、同時代人が抱いていた北陸のイメージをあぶりだす。
 ついで古文書や古記録が伝える情報を重ね合わせる。説経節と古文書の結び目には、はたしてどのような北陸社会像が浮かび上がるだろうか。

「をぐり」前半の山場

 この作品の主人公は小栗判官と照手姫のふたり。それぞれ美濃墨俣(現岐阜県大垣市墨俣町)の正八幡(現八幡神社)と契りを結ぶ神(現契神社)の、神になる前の姿である。「をぐり」の正本は、この二神の縁起を語る本地物の形式をとっている。本稿の趣旨とかかわる範囲で概要を紹介しよう。なお、紹介ならびに引用は室木弥太郎校注『説経集』(新潮日本古典集成)に拠った。
 都の二条大納言兼家と常陸源氏の流れをくむ御台が、鞍馬の毘沙門天に祈願して生まれたのが小栗であった。鞍馬の申し子だけあって小栗は文武に秀でていたが、「不調」(淫乱)な人物で、七十二人もの女性の器量試しをした挙げ句、美しい姫に変じた深泥池の大蛇と夜な夜な契りを結んでいた。その風聞はまたたくまに都中に広まり、小栗は母御台の領地のある常陸へと流される。
 流人となった小栗は、後藤左衛門なる商人の仲介で、武蔵・相模両国の郡代横山殿の末の娘照手姫と出会う。ふたりは比翼の鳥のごとくにひかれあい、大剛の人小栗は横山一家一門の意向を無視して強引に「婿入り」してしまう。
大いに立腹した横山殿は、一家一門と謀って、小栗と臣下十一人に毒酒を飲ませて皆殺しにする。その直後、鬼王・鬼次の兄弟を召して、「都のきけい(聞こえ)」もあるからと、照手姫も相模川の「おりからが淵」に沈めるよう命じる。
しかし、照手姫哀れに思った鬼王・鬼次兄弟は、沈めず牢輿のまま川に流す。照手姫は六浦(現横浜市金沢区)の漁父の太夫に救出されるが、太夫の邪険な姥(老妻)によって同地の商人へ二貫文で売られてしまう。その後の姫の流転については、語呂がよく簡潔な正本を直接引用することにしよう。
 「あらいたはしやな照手の姫を、もつらが浦(六浦)にも買ひとめず、釣竿の島にと買うてゆく、釣竿の島の商人が、価を増さば売れやとて、鬼がしほや(現新潟県岩船郡神林村塩谷)に買うてゆく。鬼のしほやの商人が価を増さば売れやとて、岩瀬(現富山県富山市)・水橋(同前)・六動寺(現射水市)・ひひ(現氷見市)の町屋へ買うてゆく。ひひの町屋の商人が、能がない、職がないとてに、能登の国とかや、珠洲の岬(現石川県珠洲市金剛崎)へ買うてゆく。  あら面白の里の名や。よしはら・さまたけ・りんかうし・宮の腰(現金沢市金石)にも買うてゆく。宮の腰の商人が、価を増さば売れよとて、加賀の国とかや、本折(現小松市)・小松(同前)へ買うてゆく。本折・小松の商人が、価を増さば売れやとて、越前の国とかや三国港(現福井県坂井市三国町)へ買うてゆく。三国港の商人が、価を増さば売れやとて、敦賀の津(現敦賀市)へも買うてゆく。敦賀の津の商人が、能がない、職がないとてに、海津の浦(現滋賀県高島市マキノ町)へ買うてゆく。海津の浦の商人が、価を増さば売れやとて、上り大津へ買うてゆく。上り大津の商人が、価を増すとて売るほどに、商ひ物の面白や、あとよ先よと売るほどに、美濃の国青墓の宿(現岐阜県大垣市)、よろづ屋の君の長殿の、代を積つて十三貫に買ひ取つたはの、諸事の哀れと聞えたまふ」
 六浦から始まった照手姫の人身売買は、盥まわしに転売を繰り返した。「能がない、職がない」という理由で、日本海側の越後、越中、能登、加賀、越前、そして近江を経て、最後は美濃青墓の遊女屋の主人、よろづ屋の君の長殿へ買い取られていく。美貌の照手姫に付いた最終的な値段は、邪険な姥の売値の六倍以上の十三貫にものぼった。遊女奉公を期待されての価格だったことはいうまでもない。
 十七世紀前半の人々が、北陸を人身売買の盛んな地域としてイメージしていたことは、「をぐり」の前半部分を見ても十分明らかである。越後から佐渡、丹後の海域を人身売買の舞台とした「さうせう太夫」についても同様のことが言える。売買に関与していたのは漁民、商人、太夫とも呼ばれた有力者、遊女屋など。説経節の世界から、北陸の海と陸とを結ぶ人身売買のネットワークが浮かび上がってくる。
 物語は小栗と照手姫の再生のドラマへと続くが、本稿のテーマからそれることとなり、紙幅の制約もあるので省略しよう。興味のある方は直接テキストでお楽しみいただきたい。水上勉『説経節を読む』も参考になるだろう。

加賀藩の人返令(ひとかえしれい)

 大坂夏の陣が終わった直後の元和元年(一六一五)十二月二日、前田利常が統治する加賀藩領内に七カ条の高札が立てられた(『加賀藩史料』第二編、三六二〜三頁)。  大坂の陣の終結は、「徳川の平和」が完成し、列島全体が内戦状態から解放されたことを象徴する出来事だった。その時機を見計らって出された高札の内容は、だいたい次のようなものである(詳しくは拙稿「近世初期北陸の悪党社会断章―走り者・牢人・人商売―」、『奥能登と時国家』研究編2所収を参照)。
 最初の三カ条は田畠の売買に規制を加えたものである。この時期、百姓の田畠放棄、土地離れは、為政者にとって危惧すべき深刻な事態にまでいたっていた。
 第四条は「走り百姓」の取り扱い規定である。走り百姓とは、土地を離れた百姓のことをいう。高札では、慶長十年(一六〇五)以降に逃散した者は本村へ帰らせ(還住(げんじゅう))、それ以前に走った者は調査対象から除外している。走り百姓の還住と領民の把握がねらいである。
 第五条は、誰かが百姓を他国へ売り渡したり、百姓が「譜代重代の契約」をして村を出ていくことを禁止したもの。ただし、百姓が年季を限って奉公に出ることや、給人が年貢未納分の補填に百姓を召し使うことは認めている。従来「人身売買禁令」と解釈されてきた条文だが、人身売買そのものの禁止ではなく、百姓が他国へ出ていくこと、土地を放棄することを警戒したものである。
 第六条は、領内の百姓で田畠を作らない者は、「不届の輩」として処罰するとしている。在村を装いながら、無届で奉公や商売に出ていく者を取り締まったものである。
 最後の第七条は、やはり百姓の村外流出防止策だが、とくに他国の金山に出ていくことを厳禁している。他国金山稼ぎに出た者があった場合、その村では家一軒あたり米一石ずつの過怠料を徴収するという。また領内の村と町には、他国金山稼ぎへ出たものにかんする報告義務を課し、報告を怠ったときは、十人組の者たちから応分の罰金を取るとしている。
 内戦終結後の加賀藩は、百姓の領外への流出を防止し、領国の統治・経営の安定を図ろうとしていたのである。とくに他国金山稼ぎの禁止は、条文の最後に配し、七カ条中唯一具体的な罰則を明示している。百姓自身の意志による「走り」、人身売買によって離村した人々。その行き先は他国の金山。それが加賀藩領統治者の現状認識であった。

江戸幕府の人払令(ひとばらいれい)

 他方、二代将軍徳川秀忠をいただく江戸幕府もまた、元和三年十月二十八日、直轄地にした佐渡金山に三カ条の高札を立てている(『日本財政経済史料』第四巻、一二〇二頁)。
 人身売買は一円に禁止する。みだりに売買した者は売り損、買い損とし、売られた者の処遇は本人の意思に任せる(第一条)。かどわかして(誘拐して)売った者がいたならば、売り主は「成敗」、売られた者は「本主」(本来の主人、親、夫)へ返すこと(第二条)。奉公の年季は三ヵ年に限ること。もし三年以上の契約を結んでいたら、売買双方「曲事」とする(第三条)。
 当時の佐渡は、諸国から流入する人々でおおいに賑わっていた。いわばゴールドラッシュだ。その佐渡に立てられた高札は、幕府がその前年に江戸で触れたいわゆる「人身売買禁令」を焼き直したもので、人商人を仲介した入山者は出て行けという、「人払い」を意図したものだった。加賀藩の高札が、他国の金山へ行くな、帰って来いという「人返し」の意図を含んだ触れであったのとは対称的だ。加賀藩と幕府の政策的な連係がうかがえよう。

金山(かなやま)へ向かう人々―「渡海の者どもあまた」

 尾張に生まれた前田利家が北陸にはじめて所領をもったのは、天正九年(一五八一)のことであった。能登一国の領主として七尾城に入った。その後、天正十一年に豊臣秀吉から能登を安堵されたほか、加賀国河北・石川両郡を加増され、居城を金沢に移した。秀吉の北陸平定がなる同十三年まで、利家は戦乱の時代を巧みに乗り切って、能登のほか、加賀と越中に所領を着々と増やしていった。
 領民の逃散・逐電は、実はそのころからの統治上の課題だった。天正年中の走り百姓のなかには「敵働」とされた者、つまり敵方の雑兵として働いている「侍」「小者」も交じっていた。奉公年限を過ぎても帰村しない「牢人」もいた(『加賀藩史料』第一編、一六九〜一七〇頁)。彼らを領内に戻し、村を復興することは、前田家にとって大きな関心事だった。
 天正十三年四月一日、利家は能州十カ所の在々百姓中に直状を出している。能登の浦々から船で他国へ渡ろうとする者があれば、侍であれ百姓であれ、厳しく取り調べて搦め捕れ。おそらく、その者どもは商人などに紛れて渡海しようとしているに違いないから、念を入れて改めよ、というのだ(『同右』第一編、二八五頁)。
 しかし、慶長三年(一五九八)八月に秀吉が没すると、列島の政治・社会情勢は大きく変わりはじめる。翌年の二月から、前田家では他国金山への出稼ぎは一切禁止と言いながら、他方で「渡海の金ほり共」にひとり当たり五貫目ずつ賦課しはじめる(『同右』第一編、六一一〜六一二頁)。侍や走り百姓たちは、戦場にかわる稼ぎ場を金山に求めはじめたのだ。「渡海の者どもあまた」という現実の前に、建前上は他国金山稼ぎ厳禁としながら、出稼ぎ料を徴収することで折り合いをつけようとしたのである。
 慶長四年閏三月に利家は没し、後を継いだ利長は、さらに強硬な対策をとる。同七年三月二十八日、能登の浦々の「船共」が他国へ渡ること、水主(船員)たちが他国で雇用されることを禁じた(『同右』第一編、八五二〜八五三頁)。また、十二月二日付の利長の掟では、加賀の浦々の船方どもが雇われて他国へおもむくことは厳禁とし、違反者は一族ぐるみ成敗する(『同右』第一編、八六九頁)、という強い姿勢を示している。
 船で日本海を渡るという手段は、佐渡金山(きんざん)や石見銀山における労働力需要とあわせて、加賀・能登・越中をはじめとする北陸の「走り者」「走り百姓」の在り方を特徴づけるものであった。これこそ、先に紹介した元和元年の高札へと受け継がれる加賀藩の危機感であった。

人身売買

 時代は下り、寛永十九年(一六四二)の年末、能登の里村、名船村、尊利地村、小田屋村に、合計十六人もの子供たちが「もらい人」となってやってきた(「上梶家文書」)。
 この「もらい人」たちは、若林喜三郎が指摘しているように、年端もいかぬ少年・少女を、加賀宮腰―能登親ノ湊ルートで売買した、実質的な人身売買事件である(若林「寛永期奥能登農村における貰い子関係の史料について」、『加賀藩社会経済史の研究』所収)。
 史料上「もらい人」と呼ばれている人たちは、三歳から二十三歳までの十六人(男女各八人)。うち七人は十歳未満であった。なかには越前からの貰い子もいた。
 宮腰が人身売買の拠点であったことは「をぐり」にもみられた。また、近世初頭の加賀藩では、牢人や走り百姓を「悪党」発生の要因と考え、その「悪党」が商人に変装して領内に潜伏していることを警戒していた。宮腰の人商人には煙草刻みや髪結が多く含まれていた。当時、煙草はアウトローを象徴するものとして、幕府も加賀藩も、生産・販売ともに禁じた御禁制品だった。
 この「もらい人」事件は、寛永十八年から同二十年にかけての寛永の大飢饉を背景としたものだろう。飢饉の影響があったとはいえ、これほど大量の人身売買をいちどに斡旋するのは、プロの人商人の手際である。彼らが人商売を成立させるだけのネットワークをもつ人々だったことは間違いない。
 この事件がもうひとつ示唆していることは、能登の人口が、走り百姓や人身売買によって流出するばかりではなくなっていた、ということである。十七世紀も半ばになると、社会情勢の安定化にともなって、能登半島内にも人身売買の受け皿ができはじめていたのだ。
 能登鳳至郡時国村の時国家は、農業のほか廻船業・塩業など多様な経営を営むいわば「企業家的百姓」だった。同家は寛永年中、加賀藩領の下時国家と土方藩領の上時国家に分かれ、生き残りをはかっている。両家はそれぞれ百人を前後する譜代下人を抱えていた。譜代下人たちは、時国家の労働力として、頭脳として、多角経営を担っていた(拙稿「近世奥能登における『下人』の職能と生活」、『国史学』第一五〇号)。
 そして、時国家の譜代下人の供給源には、債務や犯罪による「身曳」とならんで、人身売買があった(拙稿「近世前期奥能登における『下人』化の諸契機」、『奥能登と時国家』研究編1所収)。
 時国藤左衛門は、元和四年(一六一八)二月二十七日の加賀藩の奨励 (『加賀藩史料』第二編、四二八〜四二九頁)に従い、同じ鳳至郡内の南志見村で銅山開発を試みている(「上時国家文書」)。結果的に銅鉱脈は見つけられなかったようだが、半島内で新たなビジネスチャンスをつかみ、譜代下人の活用先を確保しようとしたのだろう。

悪党のネットワーク

 戦国の余燼が残る近世初期。日本列島には、生きる糧を求めて離村した走り百姓や、武家奉公人の牢人たちが群れをなしていた。その荒々しい気風は家禄を有した武家にもおよび、反社会的な行動をとる「かぶきもの」を流行させた。
 利長晩年の加賀藩では、慶長十五年(一六一〇)に金沢と高岡の「かぶきもの」六十三人を斬罪に処すという大弾圧を敢行したほか(『加賀藩史料』第二編、七二〜七三頁)、翌十六年から同十八年にかけて、精力的に家中の風俗の取り締まりと牢人対策を行っている。
 藩当局が忌み嫌い、排除しようとした家中・奉公人・牢人とは、欠勤を繰り返す者、長刀・大脇差を佩く者、広袖・取上髪・鬢切りなどの異形のいでたち、落書きする者、街頭で乱舞したり相撲をとる者、高雑言する者、不審者に宿を貸す者、女捕りする者、放火・辻切りに関与する者、等々。このようなかぶいた風俗は、家中のれっきとした武家であれ、武家奉公人の牢人であれ、「悪党人」「悪逆人」の温床になるとして、厳しく取り締まった(前掲拙稿「近世初期北陸の悪党社会断章」)。
 それは江戸幕府においても同様であった。家康没後の元和二年(一六一六)十月、江戸で触れ出した「条々」(「武家厳制録」『近世法制史料叢書』3)は、人身売買とともに不審な牢人を取り締まる法令だった。同時にこれが、先述の「人払い」を意図した佐渡国高札の原型となったのである。
 人身売買が横行した背景には、内戦後の不穏な社会状況があった。武家奉公の侍であれ、牢人であれ、走り百姓であれ、船で日本海の波頭を越え、佐渡や石見の金銀山へと人を供給していたのである。
 男たちが集まれば遊郭もできる。寛永二十一年(一六四四)の「佐洲相河雇役納御帳」という納税帳簿によれば、佐渡相川の山先町には十四軒の遊女屋がならんでいた。照手姫の例にもみられるように、遊女には人身売買の臭いがつきまとう。楼主は、加賀、越後、三河、伊勢、大坂から来た人が多かった(磯部欣三『佐渡金山』) 。
 また他方、十七世紀になると能登半島でも労働力の需要が徐々に高まっていた。たとえば譜代下人を使用した時国家、「もらい人」たちを買い取った里村や名船村ほかの例は前述のとおりである。ちなみに、このころの里村には何人かの牢人が住んでいた。彼らが人買いビジネスに手を染めていた可能性もある。
 説経節「をぐり」に描かれた人身売買はフィクションだ。だが「人買物」を口承文芸の一ジャンルとして成り立たせた背景は、間違いなく現実の世相にあった。近世初期の加越能地域には、戦国乱世のなかで育まれた悪党人・悪逆人のネットワークが存在し、海を越えてかどわかしや人身売買を手がけていたのである。


石川県史だより 第四十八号
平成21年1月26日発行
編集 石川県立図書館史料編さん室
県史編さん班
発行 石川県立図書館
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