石川県史だより 第50号 平成23年3月
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点描 いしかわの絵馬

石川県立歴史博物館学芸主幹 戸澗幹夫

一 はじめに‐社会を映す絵馬‐

 まずは、一枚の武者絵馬から紹介しよう。七尾市中挟町の藤原四手緒神社に、武勇をとどろかせた巴御前を画題とした二尺に三尺ばかりの絵馬がある。その画面に目をこらすと、左下に「天保五年午三月吉日 中挟村 徳島白雲写」と読める薄い墨書がある。一見、どこの社にも見ることのできる、何の変哲もない武者絵馬である。ところが、人目に触れない裏面には、墨をたっぷりふくませた力強い筆致で「久宝元年甲午三月吉日 御宝前」と書き、その間隙に「中挟村 太郎兵衛」の願主名をつつましく記している。
 この裏面に秘匿された「久宝元年」とは、年表の上ではみることができない私年号である。この絵馬が奉納された前年の天保四年(一八三三)は、極端な低温と長雨により天候不順が続き大凶作となった。世にいう「天保の大飢饉」のはじまりである。中挟村の隣村にある乗龍寺過去帳は、その時の窮状を「安く口に入るは火吹きの竹のみ」(『七尾市史』第三巻一九七三)と伝え、奥郡の金蔵村にある正願寺過去帳もまた「金持ちでも死にいたる人が多く、飢えたひとびとは犬猫牛馬鳥類まで食べた」(『柳田村史』一九七五)と書きとめている。
 おそらく、こうした惨状を目の当たりにした村役人の太郎兵衛は、翌年三月の春祭りに際して、ご法度に背くのもかえりみず、絵馬の裏面に「久宝」の私年号を建て、その言霊に飢饉からの離脱と豊作への願いを託したのであろう。
 このように、祈願あるいは報謝のために社寺に奉納された絵馬は、その時代の人々が共有したであろう心の営みを映し出し、人々の生きた時代の世相や個性を浮き彫りにする資料といえる。そもそも、人々と「見る・見られる」の関係にある絵馬は、たとえ個人祈願のものであっても、ある種の社会性を有している。それに加えて、絵馬によっては奉納の趣意・願主・作者・紀年などの銘文を伴うことから、歴史史料として有意義なものも少なくない。
 こうした歴史・民俗学的価値をもつ絵馬ではあるが、これまでの地域史における絵馬の扱いといえば、通史の叙述や博物館の展示における、いわば挿絵として利用されるのがもっぱらであった。こうしたなか、石川県内の一部の自治体史では、見過ごされてきた近世・近代の絵馬資料を探索し、史料として記録する試みがなされている。幸い筆者は、そうした事業の一員に加わる機会があり、加賀や能登の絵馬文化への関心を広げる機会に恵まれた。そこで、本稿ではその数少ない経験をもとに加賀・能登における絵馬文化について簡単に紹介してみたいと思う。

二 古代絵馬の発掘

 絵馬の歴史は、飛鳥時代にさかのぼる。大阪市の難波宮跡では、「戊申年」(六四八)銘木簡が出土した前期難波宮の北端を画す谷から七世紀の第四半期を下らない日本最古の遺品が見つかっている。
 その起源については、古代に神の乗り物であった生馬を献上する風習があり、生馬を献上できないものが馬形を献上し、やがて絵馬にとって代わったとするのが通説(岩井宏美『絵馬』一九七四)である。しかし、その誕生の社会史的背景については必ずしも詳らかでない。
 現在の発掘資料でみるかぎり、絵馬の誕生は律令国家の揺籃期から完成期に向けての頃とみられる。この頃の馬に対する動物観は、馬は神意にかなうものとして、神の乗り物とする観念だけでなく、ムラムラでは神へのイケニエとする儀礼も広範に行われていた時代であった。そうしたなか、天武朝以降の国家は、殺生禁断を強く志向し、国家祭祀を規定した神祇令にも供犠儀礼がみえない。また、律令国家は祈雨・止雨の国家祭祀として、文武天皇二年(698)の芳野水分峯への生馬奉献を嚆矢として、やがて丹生川上神への生馬奉献を整備していった。絵馬は、そうした民衆と国家の相反する動物観が交錯する社会に誕生したといえる。
 ここでは、絵馬の起源について私見を述べる余裕はないが、古代絵馬の多くが都城や官衙跡からの出土であり、その図像も写実性に優れたものが多いことなどから、この頃の絵馬文化の担い手は、野の民ではなく、血なまぐさい蛮行を忌避した律令国家を支える側の人々であったとみられる。
 ところで、石川県では古代加賀郡衙の関連施設とみられる金沢市畝田寺中遺跡から「絵馬」とも馬の「戯画」ともいわれる資料が出土している。それは、片面に稲を借りた人名とその束数を記した天平勝宝四年(七五二)の年紀をもつ出挙木簡(縦一〇.三aに横二九.二a)で、「絵馬」らしき図像は、そのもう一方の片面の上部中央に左向きで跳躍する馬の下半部がうっすらと描かれている(財石川県埋蔵文化財センター『金沢市畝田西遺跡群X」二〇〇六』)。図像の全体像がつかめず、絵馬かどうかの判断は難しいが、古代絵馬の多くが馬を比較的画面一杯に大きく描くのが一般的であるのに対し、それは図像周辺の空隙が広く取られて画面の大きさと図像のバランスが悪く、絵馬と呼ぶには検討の余地があるといえる。
 ちなみに、石川県内で「絵馬」と呼べる馬の板絵は、七尾城跡の城下町の一角から出土した十六世紀中頃の小絵馬が最古の遺品である。

三 変貌する絵馬

 絵馬の本義は、いうまでもなく馬の図である。その伝世品としては、穴水町平野八幡神社の天正七年(一五七九)神馬図額が最も古い。七尾市中島町豊田町日吉神社には、元和三年(一六一七)の二面一対からなる神馬図額が残されている。往時の趣は損なわれているが、もとは白日の象徴である白毛の馬と、黒雲に通じる黒馬を一対として描き、一年間の順調な天候と豊作への願いを込めたとみられる。こうした神馬図額を二面一対として奉納する形態は、古代からみられる伝統的な手法である。金沢市夕日寺町観音堂には、前田土佐守家の家老矢田四如軒が健筆を揮った白毛と黒毛の繋ぎ馬図額一対が掲げられている。
 馬図額ではないが、神馬献上に変わる意識をもって奉納された絵馬がある。穴水町美麻奈比古神社にある寛文四年(一六六四)立花図額には、画面に「馬代」の墨書が見え、さまざまな絵馬が奉納された江戸時代になってなお、生馬献上の意識が根底にあることを窺わせている。
 では馬を描くだけだった絵馬が、多彩な画題へと変わったのはいつ頃からのことであろうか。絵馬研究を主導してきた岩井宏美氏によれば、室町時代後期のこととされている。岩井氏は、絵馬の画題が多様化し、形態・仕様にも変化が現れた時代の絵馬を「転形期の絵馬」とよび、その全国的な代表例として七尾市大地主神社に伝わる懸絵の一群を上げている(岩井前掲書)。
 その懸絵とは、長禄三年(一四五九)女車曳図懸絵、延徳元年(一四八九)鳩彫物貼付図懸額、元亀二年(一五七一)猩々舞貼付図懸額、天正二年(一五七四)猿彫物貼付図懸額の四点である。これらは、その多彩な画題とともに、団扇形や扇形の特異な形状であることでも注目されている。団扇形や扇形は、仏神への手向けの作法・習俗の影響を受けたものといわれている(黒田日出男「旅と手向扇」『国立能楽堂』一四七号・一九九五)。
 これらのうち、団扇形の女車曳図懸絵は「花車女遊楽図絵馬」とも呼ばれる。しかし、その図像は、松樹の下で日輪をいただく桶を載せた荷車を曳く振り袖姿の女を描くものであり、「花車遊楽図」と呼ぶのは適当と思われない。むしろ、それは能演目の「松風」に取材した、海女乙女が汐汲車を曳く場面を想起させるものである。
 周知のように「松風」は須磨の磯辺にたつ一本の松にまつわる「松風・村雨」姉妹の詩劇として知られるが、その図像は女が一人であることや、汐汲車の桶に映る月影が日輪にとって変わるなど、上演内容に沿った内容とはなっていない。言うなれば、「松風」の趣向を借りた「もどきもの」といえる。また、その裏面には「長禄三年己卯歳正月吉日 □□□ □□ 武運長久之為 畠山家臣 長杢兵衛」の墨書銘があるが、その史料について十分な検討がなされていない。絵馬文化の変遷を辿る貴重な資料とされるだけに、今後は文献史学も含めた分析が望まれる。

四 社殿の荘厳‐歌と舞‐

社殿を飾る多彩な大絵馬のなかで、とりわけ三十六歌仙図額は圧巻である。正中に神をいただきながら、その左右の長押上に束帯姿や唐衣裳の歌仙たちが威儀をただす光景は、「神道の荘厳具」にふさわしい。
 石川県内には、失われた遺品も含めて二九例が知られる。なかでも、金沢市尾崎神社の三十六歌仙図額は、加賀藩主前田光高が寛永二〇年(一六四三)に金沢城北の丸に創建した東照宮の拝殿に奉掲されたもので、練達した絵師の手になる美術的価値の高い作品である。
 七尾市松尾天神社の慶長十三年(一六〇八)三十六歌仙図額は、七尾城代前田知好に近似した家来とその縁者三十六人が「歌仙連歌」の張行に擬えて奉納した、全国的にも古例に属する遺品である。また、輪島市輪島前神社の文政七年(一八二四)三十六歌仙図額は、正中に向かって左列の歌仙額に地元親湊の浦肝煎をはじめとする住人が名を連ね、右列のそれには他国や隣村の客人衆が名を連ねて奉掲している。これは、連歌会の接待の態にならった趣向といえ、親湊の文芸拠点となった天満宮の荘厳具にふさわしい室礼となっている。
 ところで、三十六歌仙図額の奉納が盛んであった能登では、十八世紀中頃まで、三十六歌仙図額とともに翁・三番叟の翁舞図額を一具として奉納する独特の風潮があった。これは、翁舞が神事に奉仕する祝?芸であり、神が影向する遷宮祭には翁芸がないと始まらないという神事芸能の形を絵馬に仮託する営為であった考えられる。

五 「見る絵馬」から「語る絵馬」へ

 社殿の荘厳には、神を護持する「武威」というエッセンスも欠かせない。石川県内では、輪島市下山白山神社にある寛文三年(一六六三)の義経弁慶邂逅図額を最古にして、武者絵と呼ばれるものが実に多い。また、江戸時代後期になると、語り物や歌舞伎などの広まりと相俟って、華麗で迫力ある武者絵馬や芝居・物語に取材した大作が現れた。
 金沢市寺中町に鎮座する大野湊神社(佐奈武社)の旧拝殿には、全国でも最大級の規模を誇る安政二年(一八五五)の源平合戦図額が掲げられている。その大きさは、横幅一四b四八aに高さ一b八aを測り、金沢城下の外港として栄えた宮腰の富裕ぶりを窺わせる。
 そのパノラマの大画面には、倶利伽羅峠の戦いにはじまる源平合戦の名場面が、絵巻をみるように展開している。注目されるのは、画面中央に、源平の時を超えて、港町として賑わう宮腰の情景と佐奈武社の佇まいが大きく描かれ、それを背景に『源平盛衰記』が伝える地元ゆかりの宮腰佐良嶽浜の場面が表現されていることである(太田昌子「大野湊神社所蔵の絵馬・扁額悉皆調査の中間報告」『芸術学学報』第四号一九九七)。それは、異時同時法を用いて源平の世から歴史をいまに継起させ、宮腰が著名な軍記物にも登場する「歴史の舞台」であることを謳い上げ、その歴史を共有する氏子連中の誇りとするものであったろう。また、その壮大な源平合戦絵巻は参詣者の呼び物となり、見る人に『義経記』や幸若舞曲の『笈捜』に浮遊する宮腰を舞台としたうら悲しい義経伝説にリアリティーを注入することにもなったことであろう。
 芝居絵馬では、幕末から明治にかけて仮名手本忠臣蔵が人気を博した。浄瑠璃・歌舞伎が盛んであった小松市内では、実に三四社に掲げられている。また、同市内では主君義経の身代わりとなって討たれた佐藤継信・忠信兄弟を画題とした「八嶋」も好まれた。その描法は、各段の名場面を絵解きするように雲や霞で区切ってコマ割りするのが特徴で、人々の目を楽しませるだけでなく、「語る絵馬」へとその役割を増幅させ、近代の政治秩序の形成とも深く関わりながら、苦難をいとわない自己犠牲をたたえる「忠義」や「道徳」を涵養するメディアともなった。

六 アイデンティティの横溢

 大絵馬の画題には、定番の図像によらず、地元に根をおろした人々の心情に訴え、共感の対象とした独特な絵馬も少なくない。その一つが風景絵馬である。その代表作には、金沢城下の周縁世界を活写した金沢市千日町雨宝院の天保十四年(一八四三)犀川口図額、北前船の寄港地で景勝の地としても名高い富来町福浦の猿田彦神社の文久二年(一八六二)福浦湊図額、加賀市山代温泉薬王院の明治二年(一八六九)薬王院温泉寺境内並びに湯の曲輪図額などがある。
 生業図絵馬も地域性を浮き彫りにする。定置網の盛んな富山湾沿岸では、ときに大きな富をもたらす寄り鯨の記憶を絵馬に掲げる村があった。能登町矢波の日吉神社にある弘化二年(一八四五)捕鯨図額は、七尋(約一〇b五〇a)の鯨を捕獲した時の事情を銘文とともに生き生きと伝えている。また、同町藤波の神目神社では幕末の作とみられる三面の捕鯨絵馬が残されている。うち一面は、嘉永六年(一八五三)に能登海岸防備の視察で巡検に来た加賀藩主前田斉秦が鯨取りを見物している様子を描いたものである。この他、七尾市印鑰神社や同市百海諏訪神社にも類例が知られる。 小松市安宅住吉神社には、地曳網漁で賑わう安宅浦の光景を描いた安政三年(一八五六)の安宅浦大漁賑わいの図額がある。金沢市粟崎八幡神社では、文化十四年(一八一七)福神丸・虎福丸図額の画中に洋上往来する船の賑わいとともに、内灘の地曳網漁の様子が垣間見える。
 農耕図に目を転ずると、加賀市菅生石部神社には四条派の絵師吉田公均が描いた弘化三年(一八四六)田園四季農耕図額がある。この種のものは、中国の耕織図の影響を受けた耕作図を粉本としており、必ずしも地元の田園風景を描くものではないが、小塩辻村の十村で篤農家を相伝する鹿野小四郎を筆頭に、大聖寺藩の村々の肝煎頭が名を連ねている。

 つぎに、祭礼図をみてみると、七尾市田鶴浜町三引の赤倉神社が蔵する享保二年(一七一七)赤蔵権現祭礼図額は、赤倉神社の社頭を背景にさまざまな作り物や仮装行列で構成された赤蔵権現の神輿渡御行列を描いたもので、数少ない村落祭礼の絵画史料として特筆される。また、七尾市や珠洲市さらには中能登町では、豪壮な曳山図額が散在する。
 雨乞い絵馬は、七尾市小島町の妙国寺をはじめとする法華寺院群や羽咋市柴垣の長手島七面堂などにみられる。小松市矢田町刀何理神社には。明治二五年(一八九二)の神社合祀にともない、延喜式内社の社名復旧がなったことを祝った祭礼図額二面がある。

七 流通する絵馬

 絵馬の製作には、地元の職人絵師から藩のお抱絵師といった一流の絵師まで、さまざまな絵師が関わった。絵馬の需要が高まった江戸後期になると、金沢でも専門の絵馬屋が開業するとともに、他国産の絵馬も広く流通した。他国産の絵馬では、北前船の隆盛とともに販路を広げた大坂出来の船絵馬と越前福井の夢楽洞絵馬が双璧である。
 石川県内の船絵馬は、穴水町大町辺津比盗_社の宝暦二年(一七五二)に遡る遺品が知られるが、広く普及するのは文化文政期以降のことである。多くの船主や乗組員を輩出した加賀市瀬越、金沢市粟崎、志賀町福浦、輪島市門前町剱地、同市鵜入町、同市光浦町などの鎮守では十指に余る船絵馬が所狭しと掲げられている。
 江戸時代における船絵馬制作の主流は、吉本善京と杉本勢舟をそれぞれ初代とする吉本派と杉本派であり、明治以降になって絵馬屋藤兵衛の作品が市場を席巻した。こうした船絵馬は、船絵師から直接購入する機会も少なくなかったが、敦賀には六路屋という船絵師との取次を行う小間物屋があり、地廻り海運に携わる人々の需要にも応えていた。
 一方、福井の夢楽洞は、福井城下の北陸道に面する小田原町に店を構えていたことから、旅ブームの到来によって安価な絵馬が街道を行き交う人々の土産品として人気を集めた。
 加賀や能登では、本願寺詣りや伊勢参宮などの帰参儀礼として奉納された夢楽洞絵馬が各地にみられる。とくに越前に近い南加賀や白山麓では、旅の土産品にとどまらず社殿を荘厳する大作も少なくない。

八 おわりに

 絵馬は、地域社会と深く関わる時代を映す鏡といえる。そうした視点で、主に江戸時代の絵馬を取り上げてみたが、その意を十分に果たせたかどうかは心許ない。ただ、これを機会に見過ごされてきた絵馬文化への理解が深まれば幸いである。
 なお、石川県では、近世の都市寺院でも旺盛な絵馬文化の展開があった。今回、紙幅の関係からその点について触れることができなかったことをお断りしておく。


巴御前奮戦図額・表

写真1 巴御前奮戦図額・表(藤原四手緒神社蔵)


巴御前奮戦図額・裏

写真2 巴御前奮戦図額・裏(藤原四手緒神社蔵)


石川県史だより  第50号
 平成23年3月10日発行

編集 石川県立図書館史料編さん室
               県史編さん班
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