石川県史だより 第53号 平成25年5月
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加賀の氷室行事
小林 忠雄

金沢の氷室行事

 これまで金沢の郷土史家の間では、毎年七月一日(旧暦六月朔日)の氷室の日に、かつて加賀藩が江戸将軍家へ氷を届ける役目を仰せつかった。そこで藩は犀川の上流倉谷の谷間に残る氷を、もしくは兼六園内に氷室小屋を設けて冬の積雪を貯蔵した。そしてこの時期に取り出して箱に詰め、筵を何枚も重ね、おがくずなどで覆って、早駕篭で七日間かかって江戸へ運んだ。江戸に到着した頃にはほんの一固まりの氷でしかなかったが、将軍家に対し面目がたったと伝えてきた。しかしこの伝説には何の根拠もない。加賀藩には、未だそれらしき文献記録がないからである。
 それではなぜ加賀藩と氷室行事が結びついたのか、また、この行事の全貌とその構造を、民俗学的な視点から明らかにしようというのが本稿の目的である。
 ちなみに氏家栄太郎『昔の金沢』には「氷室と饅頭」の表題で、次のように説明している。「(六月)一日は氷室と称し朝儀(宮廷儀礼)の氷室の御節会に倣い民間一般に氷を食う。旧藩時は藩主から幕府へ氷を献上したもので昔時は勿論今のような人造氷のないこととて江戸市中といえども、氷を得ること容易でなく纔(わずか)に伝手を求めて前田家より献上氷の?余(えいよ=余分な残り)を分ち獲たものであるという。金沢においても雪を貯めるは近時よりのことで藩時では深渓幽谷から、冬季積雪の残余を取り来って市中へ商ったのである。」とある。また「昔はこの饅頭は御門前西町の新保屋が有名で、1寸小型の甘味のない小豆餡をいれた風味の軽い佳良のものであった」としている。 注1
 昭和7年(1932)に刊行されたこの著者の解説がなぜ市中に流布しなかったのか、一般化しなかったのかが、現在では些か疑問である。
 本来、氷室とは古代大和朝廷にて「供御の氷」(つげの氷)を貯蔵する場所。仁徳天皇六十二年条によると、地面を一丈余り掘った竪穴の底部に茅や萩(すすき)を厚く敷き、池から採取した氷をその上に置き、上部を茅で覆ったもの。この時の氷室伝承は闘鶏(つげ)の氷室に関するもので、この氷室は『延喜式』にもある大和国山辺郡都介(祁)(つげ)氷室のことである。そして闘鶏国造が天皇に氷を献上するという慣例の儀礼であった。その行事が平安時代以降に「氷室の節会」、「氷室の御祝儀」、「賜氷の節」、「氷室の祝」の名称で、宮中からさらに将軍家へと伝えられた。 注2
 この都祁の氷室とは、奈良県山辺郡都祁村に設けられたもので、天武天皇の孫で奈良時代初期の朝廷の左大臣職にあった長屋王の屋敷内から出土した木簡に、氷室をつくり氷をしこんだことゝまたそれを運び出したことが記されている。
 なかでも狛首多須万呂が、氷室の氷を長屋王に差し出した記録によると、和銅4年(711)6月29日から閏6月12日までに、馬に5頭分の氷を長屋王邸に運んだものである。また馬以外に、ひとが担ぐ二荷分とも記されている。この場合の氷の使い道は「熱き月に当たりて、水酒にひたして用ふ」とあることから酒のオンザロックにしたらしい。また清少納言が「削り氷にあまずら(甘葛)入れて、あたらしき金鋺に入れたる」とあり、菓子としても食べたようだ。さらに夏に死亡した死者の遺体の腐敗の防止にも使っている。 注3
 一方、平山敏治郎は『歳時習俗考』のなかでいくつかの文献をとりあげ、この六月朔日の行事について以下のように分析している。
例えば「武家年中行事」によれば「六月朔日には氷堅餅(しみもち)を大草家から調進する。赤餅十二、白餅十二、干飯十二杯とある。十二の数は月の数によったのであろう。民間で歯固めをこの日にするところもあるが、正月餅を用いた。
 「中世文学と年中行事」によれば「この正月の祝いに用いた晴の食物は餅である。これは歯固めの餅で円鏡つまり鏡餅であった。歯固めと称したのは、『枕草子』巻三に「齢を延ふる歯固」とあるように延命長寿を祝して、屠蘇の薬酒とともに奉ったのである。」と解説している。さらに『源氏物語』初音巻にも「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて」とあり、この場合の餅は食べ物ではなく、鏡に向かうように見るだけのものだった。今日各地で身祝いまた年玉などと称して、元朝の祝い膳に丸餅を一つずつ添えられるが、これが歯固めの餅である。さらに『歳時習俗語彙』によれば、この歯固めを六月朔日の行事名にしたところがあるが、越中の「煎菓子盆」、越前の「歯固め」は炒豆、東北にも乾し餅を食べることがある、と記している。 注4
 ちなみに明治24年刊行の森田柿園『金沢古蹟志』によれば、金沢城内の玉泉院丸の築山の下に、藩主が召し上がる氷雪を蓄えるため、2間×4間の穴を掘った氷室があった。穴蔵は戸室石で積み立てたもので、毎年、厳寒期に足軽が清潔な積雪を箱詰めにし、この室に納め、さらにたくさんの雪でその箱の周りに詰め、六月朔日に取り出すものと記す。またこの氷室は5代綱紀公のとき命ぜられたもので、それ以前は石川郡倉谷よりもたらされた。『三州地理志』に「天正11年6月朔日、倉谷村始献氷雪」とあり、その後城中に氷室を造ったのであり、元禄6年(1693)に止めたとある。他に『可観小説』に天正12年(1584)、前田利家公が佐々成政との合戦の際、倉谷村の百姓が諸役を免除させられたお礼に、六月朔日に金沢城内へ初めて氷を献じたとある。このとき氷を届ける役の倉谷四ヶ村とは二俣村・倉谷村・見定村・日尾村であった。このような記録からは城内の氷調達以前の様子が窺われる。 注5
ちなみに加賀藩の上級武士、今枝家に仕えた漢学者の金子有斐(鶴村)が記した日記によれば、文化五年(1808)六月朔日を見ると、「御屋敷江出ル 御前江出申事、御次ニ而氷拝領仕候へとも氷給不申事」とあり、恒例ではその日必ず氷が貰えることになっていたようだ。
翌六年を見ると「髪結より雪を呉れ申事 終日風涼し」とあり、髪結から道端で売っていた雪氷をもらったと記している。ところが文化十三年(1816)の記載になると翌日の二日だが、「田辺吉平殿ヲ問ふ談話之内麦饅頭出る」とあり、氷の代わりに麦饅頭が出されたことが記されている。また文政六年(1823)には、六月朔日に城中にて能七番が舞われ、その一つに「氷室」があったと記す。さらに文政十二年(1831)六月朔日では「曇天風寒し、氷ヲ祝ふの景気なし」とあり、特にこの行事を必ず行うべきものと、ことさら強調している様子はない。しかも天保九年(1838)の六月朔日は「今日いり米致間敷由御触れニ而、いり米致処も少々出来ニ而済す也」とあり、この年はなぜかいり米を禁止するお触れが出ている。その当時起った飢饉にて世の中が騒然としており、藩が自粛を促したのだろうか。同じ頃、乞食の盗みが横行するので戸締りを厳重にすべしとも記している。 注6
 武士の行事と異なり、町人の場合はどうなのか、ここでは加賀象嵌職人(金工師)米沢弘安の日記を見てみよう。明治42年7月1日「今日ハ氷室ナリ 煎豆、麦万頭ヲ食フ日ナリ 高道ノ高桑へ 氷室万頭ヲ買テ持チ行ク」とある。翌明治43年6月1日には特に氷室に関する記載はないが、その少し前の5月26日に「僕ハ謡ノ稽古ニ行キ、氷室会ノ相談アリ十時半頃帰ル」と記す。このときの謡の氷室会は6月12日の午前6時から9時まで茶屋料亭の松登美楼で行われ、その後、一度帰宅し昼食後に再度松登美楼に行き、夕方7時頃まで謡をうたう。その後、30人ほどの宴席が設けられ夜の10時まで飲み騒いだとある。ところが翌月の7月1日には「今日ハ氷室ナリ 麦万頭ヲ食フ日ナリ 松本様ヨリ貰フテ食ル 買テ来テモ食タ」とあり、翌44年でも「氷室故、万頭ヲ買テ来テ食ス」と記し、その日に限り菓子屋から買い求めてまで氷室万頭を食べる慣習となっていた。
ちなみに明治45年の場合は「松本ノ信チャンガ氷室万頭ヲ持テ来タ 泉屋ノ芳子さんモ持テ来ラレタ 今日、長田ノ天神様デ氷室会ガアルトテ呼ニ来タガ行カレナカッタ 清二ノミ夕頃行ッタ 会者15名アリシト」とし、いずれにしろ明治以降は新暦の7月1日を氷室の日として麦饅頭を食べる慣習が定着したことをこの日記では示している。
また大正4年には「今日は氷室ニて万頭があたった」とだけあり、大正6年は、「今日は、氷室の1日にて日曜日と重なり、工場や役所の休日とて街路は中々賑ふた 興行物大入なるべし 床ハ氷室の歌 室の戸を今日出でそむる厚氷、た可手ニ□けて渡越すらん 長板一つ飾にて菓子は氷室万頭」とやや詳しく記している。
大正7年も「今日は氷室にて麦饅頭を食す日なり 朝、松本様よりエリ米を買ふ 午后、土方のお母様と鉦ちゃん御出あり お重詰の饅頭とえり米をお頂戴した」とある。
次いで大正8年は「土方のお父様、病気全快にて本日午前中、氷室万頭、エリ米等を御持参にて御来宅あり 難有頂戴せり」。大正9年は「午后お母様御出あり、氷室万頭やらお魚及盆の贈品(酒券)をお貰ひした」と記す。そして昭和3年になると「土方の嫁様氷室万頭を持って御出あり」と親戚のみから到来している。 注7
 この弘安の日記を見ると、氷室の日には最初、煎豆と麦饅頭を食べていたが、大正以降になると炒り米が登場してくる。しかもわざわざ店から買い入れている。
 米沢弘安は職人でありながら、加賀藩の御用職人の伝統なのか、熱心に謡曲の練習に励んでいる。したがって7月1日頃になると氷室会という氷室の謡の会が毎年開かれた。
これは特に加賀宝生流の伝統行事で、市内の神社や寺院、師匠の家に全員浴衣がけで集まり、扇子を手に謡曲「氷室」などを連歌になぞらえて本歌仙で三十六番、半歌仙で十八番を謡うもので、三十六歌仙になると翌朝までかかったという。弘安の日記にもあるように大正年間以降は料亭などで開き、終わると宴会をするのが慣例とされた。
 加能民俗談話会の会員で俳人の杉原竹女(明治33年生)は昭和15年に「ひむろ」と題して寄稿している。それによると、その当時は氷室の日に「えんどう豆ご飯」に「竹輪はべん」「胡瓜なます」「杏」に「氷室饅頭」を必ず食したとある。しかもそれ以前は、女の子が終日おままごとに興じたと同時に、この日に限りなますや海苔巻き、竹輪の煮付けをして大人に振舞ったともいう。そしてこの日のオヤツが杏と氷室饅頭で、それも甘い餡ではなく塩味だけのつぶし餡に、まわりに包丁で切れ目を入れ、白砂糖をはさんで食べたと記している。 注8
同じ号で長岡博男は「いりがし盆」と題して、以下のことを記載している。
まずヒムロは朝廷の「氷室の御節会」、幕府の「氷室の御祝儀」になぞえられたもの。この日、麦饅頭を食べると「腹に虫がたたぬ」と称されてきた。また金沢の町家ではどこでも炒り米を炒って食べたと伝承する。
他方、金沢近郊農村では農休みとし、浅川ではヒムロノツイタチと言い、粟ケ崎では若い衆は河北潟で舟遊びをするのが慣例であった。また旧野々市町ではイリガシとカキモチを配る慣習があり、子供たちはそれでままごとをした。
江沼郡では「イリガシマツリ」、河北郡ではイリガシボンと称した。鏡餅のかけらをハゼと称して食べた。能登の羽咋、鹿島ではハガタメ(歯固め)とも言い、鳳至郡・珠洲郡ではオンノキバ(鬼の牙)と言ってカキモチを食べる慣習だった。いずれも固い物を食べて鬼の牙ほどの丈夫な歯になるよう、歯が丈夫ならば病気することもなく夏を乗り切れるのだとも伝えられた。 注9

鬼宿日のこと

そもそもこの「氷室の節会」とはどういう行事なのか。
 古代中国の漢代では、天文現象を観測することを「観象授時」と言って皇帝の業とされていた。「観象」とは観測すること、「授時」とは暦をつくることである。これは皇帝が、天が示す多様な天然現象の意味を知り、それをもって支配権力の支えにし、同時に皇帝のこの世における超越者としての神格を誇示するための占星術でもあった。
また古代中国では暦は重視され、それは宗教暦であるとともに農業暦であって、農耕社会の管理者である皇帝が暦をつくることで、実際の権力を掌握してきたのであった。
 このように呪術性と合理性を併せ持った天文学は、古代中国では早くから発達し、なかでも古代インドを発祥とする二十八の星座による占星術は、既に前漢武帝の頃に記された司馬遷の『史記天官書』にも著されていた。その『律書』には「日月五星が運行する二十八宿の星座、音律と暦は天が五行と八方の風の気を運営し、また万物を成熟させる根本となるものである。」と記している。つまりこの場合、二十八宿の星座とは日・月・五星の天球上の位置を表すために、天の赤道付近に仮想した二十八の星座のことであった。 
 これは、日本では、古くは仏典の『宿曜経』が伝わると同時に二十八宿、十二宮と七曜、九曜の星の運行を人の運命に結びつけ、それらは星宿とも称され、いわゆる陰陽師によって吉凶を占う術が行われたものである。
そしてこれを使って俗に宿曜師(すくようし)と呼ばれる陰陽師の活躍があった。また紫式部の『源氏物語』(桐壷)にも記されているように、当時はこの星宿日により、その日の吉凶の運が左右されると信じられた。 注10
 この二十八宿の一つに鬼宿(星)がある。これは蟹座の星団を「積尸气」と書き、亡魂とみたためである。古代インドでは鬼三星とし、二十八宿では最も尊重され、特に釈迦の降誕は月が鬼宿と会した時と伝えたほどである。この鬼宿は和名を「たまほめぼし」と記し、その鬼宿が守護する鬼宿日は、陰暦の正月十一日、二月九日、三月七日、四月五日、五月三日、六月一日、七月二十五日、八月二十二日、九月二十日、十月十八日、十一月十五日、十二月十三日の各日としている。 注11
なかでも正月十一日と六月一日は、鬼宿日でも特別の日であったらしく、さまざまな行事が行われた。
十一日は一般に「鏡開き」、商家の「蔵開き」、武士の「鎧櫃開き」、漁民の「起舟(きしゅう)」、農家の「吉初」などと、その名称はまちまちであった。全体的に年の始まりを祝う行事のように感じられる。なかでもこの日は、二十八宿中の最吉を宿す大吉祥日とする縁起の良い日とされたのである。
この日の「鏡開き」は、餅を切ってはならず、槌や斧で割って食する習わしであった。これを「掻餅」と称した。奥能登の民俗研究者である輪島俊二氏の報告によれば、珠洲市では海に臨まない山間の農村でも、正月十一日を「キシュウ」と称して「田打ち祝い」を行っている。
加賀藩では百姓がこの日土産を持参して士家を訪ね、新年の「祝詞」を述べるもので、これをキシュウ(吉祝、帰主)と書いた。また代官支配の農民から「吉初銭」を受け取ったとの記載がある。さらには農吏が地頭に見えて農事の始まりを告げ、地頭は農民にその勤労を賞したことからキシュウ(吉書)という行事が行われるようになったとされる。 注12
「鬼」の字の中国読みは「qui(くぃ)」であり、「鬼宿」は「qui xi?(くぃしゅう)」と読む。中国の辞書『辞海』によれば、「鬼宿」は「星官名。鬼・與鬼。二十八宿の一。蟹座・積尸气」とある。
昭和47年に、能登輪島市の漁師町である輪島崎町の古老からある伝説を聞いた。
 「輪島の空には毎年、旧正月十一日に、二十八宿の一つである鬼宿星(きしゅくぼし)という星座がめぐってきて天空に光るという。この星は海に関係した星で、漁の神様が宿っており、漁師にとってはとても大切な星とされてきた。鬼宿と書いてこれをキシュウと呼ぶようになったのだ」と。 注13
 この伝説を裏付ける記述として『石川県鳳至郡誌』には、輪島崎の伝承として「起舟は、年頭に鬼宿星を祭りしより転訛せしなり」とある。 注14
 この伝承自体は、正に星宿日の占星術そのものを伝えている貴重な資料と言えよう。
 いずれにしろキシュウは俗に「起舟」と書き、新年の漁業の始まりを祈願する祭りであった。特に北前船の船主や漁船の網元と親方の家では、水夫・漁民(かこ)らを招き、今年1年間の契約を交わすと同時に、祝宴を催す慣習であった。
 

6月1日(7月1日)の意味

民俗学者の宮田登は「日本の年中行事研究の中で、六月という月は何かと注目されてきたもので、特に最初の一日は、重要な折り目と意識されたらしい。」という。
 なかでも関東地方ではムケノツイタチ・キヌギヌノツイタチ、あるいは「歯固め朔日」とも言い、正月の餅をこの日食べるという慣習がある。
農村ではこの日に限り身体の皮がむけるので、六ッ刻前には田畑に出てはいけないというタブーがあった。つまりこの日人は脱皮新生するという。また正月の餅はただ食べるだけでなく、それをくだいて手足首筋に塗りつけると蚊や虻に刺されないと言い、餅の霊力を信じていたのである。
 つまり六月は正月をやり直す月なので、これを流行正月、仮作正月とも称した。すなわち何か悪い年に、もう一度正月をとり直す意味があり、そのため6月1日を正月元旦に想定したとされる。 注15
 平山敏治郎の「取越正月の研究」によれば、正月をやり直すのは必ずしも6月1日だけでなく、『武江年表』には明和八年(1771)の条に「十月俄正月とて祝ふ事あり」と記され、また7年後の安永7年には、またまた仮作正月の営みがあり、騒ぎを演じたとある。
さらに『浪速叢書』第十一には、京都で、今夏の異変の厄病除けの呪いとして、その流行する悪い年を早く送ってしまおうと期待し、六月朔日に市中に正月の儀礼を行い、雑煮を祝い、節分豆も祝うことで、各家では餅をついたとの見聞を記録している。この場合の悪い年とは疫病が流行った理由で、取越正月を必要としたのである。
特に『摂陽奇観』には「六月疫病流行、傷寒は風のかはりに来れどもまた吹かへる伊勢の神風、この歌を書て七ッ葉を添て帯の縫目に入置べし、また門口に張置ば其疫病を遁るるといひふらす」と書いているとされる。
 これは江戸の町々にも流布し、『武江年表』には「安永七年五月晦日、江戸にて大晦日と称し節分の如く豆を打、厄払ひの乞食出、六月朔日を元日と称して、門松を立雑煮を食し、屠蘇をのみ鏡餅を設け、町家にては商をやめ、戸を立よせ簾をかけ、買人来れば雑煮を出し酒を進む、宝船の画をうる者も出たり、江戸中如此したるには非ざれども、此事をなすもの多し」と述べている。また別に、この年江戸では五月朔日を元日と取り越したとしているのである。 注16
 一方、宮田は『兎園小説』の「江戸本郷加州御屋敷氷室の場所は、慶長八葵卯六月朔日雪ふりたる所なり。この雪富士の形につもりたるゆえに、其所へ浅間の宮を造立し毎年六月朔日まつりをなす」との記載をとりあげ、そのころの本郷在住の3戸の旧家が、祭事を執行していたところ、寛永五年(1628)に加賀藩屋敷に囲い込みになったと記していることに注目する。つまりここでは六月一日の雪の奇跡と、富士浅間の勧請とがうまくオーバーラップさせているのが特徴的だとする。
 さらに宮田は、埼玉県北川辺町飯積では六月一日を「浅間(せんげん)さま」と呼び、東京品川の品川富士という見立ての富士山の山開きの日としていた。つまり本来富士山の万年雪は正月の再現であり、白色による浄化が求められたもので、六月一日に江戸へ移ってきたことが富士浅間信仰を勧請させた背景なのであろう。その心意の根底には柳田國男が予想した「六月に凶年を改める発想があった」からとしている。 注17
 日本の有職故実研究の第一人者、風俗史家の江馬務『日本歳事全史』の六月一日の項によれば、「江戸駒込の富士市」がこの日に行われたと記す。江戸駒込の富士権現はもと本郷にあり、ここに小山ありて山上に大樹あり、その樹の下に六月朔日に大雪降りしことがあったので、その樹の下に小社を作り富士権現を祀った。後にこの地が前田家の地となったので駒込に移された。参詣の人々に麦藁の蛇を葉竹につけて売る。これは宝永の頃、百姓喜八というものが作り出し、これを持つものは疫を免れるというので買われた。また五色のあみ袋、果物、手遊び、唐団扇、氷餅も売られた。(これは『東都歳事記』の記載に同じ)
 また「この日を山開きといい、富士登山が開始された」と記す。さらに「山形の剥け日」と言い、人の体の皮膚がみな剥け変わるというので、家内一同とろろを食い、菜に炙り紫蘇葉、乾燥苔などを取る慣習があった。 注18
 金沢ではいずれにしろ江戸後期から明治大正期にかけて、この日以降、「しらやま(白山)氷」(ちなみに富山では立山氷という)の旗を立てた氷屋が、筵や菰に包んだ氷(雪)を鋸で切り割り、「コオリコオリ ユキノコオリ シラヤマコオリ」あるいは「ガバリガバリ」の掛け声で、笹の葉にくるんで売ったと伝えている。この光景については、大正9年に書かれた泉鏡花の随筆『寸情風土記』に描かれている。 注19
 また近年は嫁の里から、この日に白の氷室饅頭(今は白・薄い青・薄い桃色の三色)をお重に入れ、ひな菓子とかあられ菓子、青竹を芯に巻いた竹輪、以前は季節の果物として杏やりんご、枇杷などを持参して嫁ぎ先に届けるのが慣例だった。前述の米沢弘安の日記のなかにも炒り菓子が饅頭とともに贈答されたことが書かれていたが、盆(中元)の贈答慣行と重なっていたようである。
 また江戸時代から麦饅頭があるように、この時節は麦の収穫期にあたり、農家では麦は雪に耐え人に踏まれて育ったことから、これを食べれば病気にかからないと白い麦饅頭をつくり収穫を祝うと同時に縁起をかついだもので、特に嫁ぎ先に饅頭を持参する慣習が氷室行事に取り込まれたのではないかと推察されている。
 しかし千代芳子氏によれば、氷室饅頭は享保年間(1716〜1736)に片町の菓子屋、道願屋彦兵衛の発案で、塩味で小豆餡の麦饅頭を売り出すようになったとされている。 注20
 明治期の和菓子屋の引札には、例えば「小立野中石引町阿良木與右衛門 氷室 麦満んじう 例年之通 七月一日売払」とあり、この頃には市内全域で氷室の麦饅頭が販売されたことが窺える。

氷室小屋の構造

金沢市湯涌温泉の玉泉湖畔で、同温泉観光協会が昭和61年(1986)に復活させ、毎年氷室小屋を再現している。旧白雲楼ホテルの倒産後、土地管理上の規制で使用していなかった小屋を、同温泉観光協会が建て直した。過去6年間は温泉街の薬師寺境内に小屋を設けて行事を続けてきたが、今は日陰で涼しい「発祥の地」に戻している。
小屋を建てる前に氷室に埋めた雪は、地表すれすれまで残っており、6月30日の氷室開きに取り出される。
氷室小屋の大きさは間口4m、奥行き6m、深さ2.5mである。薬師寺境内の小屋よりも間口、奥行きが大きく、茅葺(かやぶ)き屋根で昔ながらの風情を再現した。総事業費は約350万円で、市の助成を受けた。過去には氷室の雪が解けてしまい、白山麓(ろく)の雪を使ったこともあった。この氷は加賀藩ゆかりの江戸下屋敷のあった東京・板橋区にも贈られている。
先の長屋王の木簡記載に見る氷室の構造は、氷室は都祁(つげ)村に2ヶ所あり、それぞれ深さ3m、周囲の長さが18mの円形であった。氷室には厚さ9cm、もしくは7.5cmの氷を置く。この氷の上を覆う草は1000束、1室は500束とされた。 注21
前述したように『金沢古蹟志』によれば、金沢城内の玉泉院丸の築山の下の氷室は、2間×4間の穴の氷室であった。穴蔵は戸室石で積み立てたもので、毎年、厳寒期に足軽が清潔な積雪を箱詰めにし、この室に納め、さらにたくさんの雪でその箱の周りに詰めたとある。さすがに藩主が食するものだけに、戸室石に囲まれたなかに入れ、清潔さを保ったのであろう。他方、江戸本郷の上屋敷の氷室は地面を掘っただけなので、献上した氷は泥が付着して黒く汚れたものだったらしい。
その他、明治以降は製氷技術が普及する明治末期まで、金沢市内各病院の敷地内に氷室小屋がつくられていた。また珠洲市狼煙では真夏に獲れた魚介類を消費地(七尾市、金沢市など)まで運搬するため、海岸の砂地の空き地に氷室小屋を設け、毎年2月にムラ人が全員で穴に降り積もった雪を詰めて、足で踏み固めて夏までとっておいた。こうした医療用や生業用の氷室は古代から継承されてきた生活の智恵である。儀礼と関係のない氷についてもより具体的な事例を蓄積し、さらに研究すべきではなかろうか。
いずれにしろはるか古代から朝廷の儀礼にはじまり、武士や町民にまで拡散していった氷室行事は、いまでは全国でもこの金沢のみに、しかも形を変えた食文化として、意味がよくわからないまま伝わってきたことが、とても稀有なことである。
それはこの地方の地域性も加わって、江戸時代からとても大事な儀礼として扱われ、近代以降も大切に伝えてきた意識がこの行事の継続を促してきたものと考えられる。
金沢が世界遺産に認定されるためにも、こうした行事を支える精神土壌を守りぬく姿勢が必要であり、いわば伝承文化がにじみ出るような文化的景観を残していかなければならないであろう。

[注記]
注1 氏家栄太郎『昔の金澤』金澤文化協会 昭和7年
注2 吉川弘文館『国史大辞典』11巻「氷室」平成2年
注3 佐原真『食の考古学』東京大学出版会 1996年
注4 平山敏治郎『歳時習俗考』法政大学出版局 1984年
注5 森田平次『金澤古蹟志』巻4「玉泉院丸氷室」明治24年、歴史図書社(復刻)
上巻 昭和51年 
注6 『鶴村日記』(「坐右日録」)石川県図書館協会 昭和51年 上編一など
注7 米澤弘安日記編纂委員会『米澤弘安日記』金沢市教育委員会 平成15年
注8 杉原竹女「ひむろ」『金沢民俗談話会』17号 昭和15年
注9 長岡博男「いりがし盆」『金沢民俗談話会』17号 昭和15年
   同「民俗の変遷」『石川県の歴史』北国新聞社 昭和25年
注10 吉田光邦『星の宗教』淡交社 昭和45年
注11  野尻抱影『星と東方美術』恒星社 昭和46年
   新村出『広辞苑』岩波書店「鬼宿日」の項 昭和42年26刷
注12 日置謙『加能郷土辞彙』北国新聞社(復刻)昭和48年「キシュウ(吉祝)」の項
   『稿本金沢市史 風俗編第一』金沢市役所 名著出版(復刻)昭和48年
注13 小林・高桑『能登―寄り神と海の村』日本放送出版協会 昭和48年
注14 日置謙編『石川県鳳至郡誌』鳳至郡役所 大正14年
注15  宮田登『江戸歳時記』吉川弘文館 昭和56年
注16 平山敏治郎『歳時習俗考』法政大学出版会 1984年
注17 宮田前掲書『江戸歳時記』
注18 江馬努『四季の行事』『江馬努著作集 8巻』中央公論社 昭和63年(普及版)
注19 拙著『金沢、まちの記憶 五感の記憶』能登印刷出版部 2009年
注20 千代芳子他『金沢の和菓子』十月社 1994年
注21 佐原真前掲書『食の考古学』

[備考]
 本稿に先立ち竹井巌「金沢氷室考」『北陸大学紀要34号』2010年に類似の論文の労作がある。ついては本稿において引用文献などに竹井論文との重複箇所があるが、専攻分野が違うので論旨が異なることから筆者が自ら引用した部分は特に訂正せず、またいちいち指摘せずにそのまま掲載した。合わせてご高覧ください。

(北陸大学未来創造学部 教授)


石川県史だより 第53号
 平成25年5月31日発行
編集 石川県立図書館史料編さん室
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