石川縣史第二編稿を脱し、こゝに之を印刷に附して世に公にせしむ。 本編の記述する所は、天正十一年前田利家が、豐臣秀吉より加賀の二郡を増賜せられて、治を金澤城に施きたる時に始り、明治四年金澤・大聖寺二藩の廢せられて、藩知事前田慶寧及び前田利鬯が、居を東京に移しゝ時に至るまで、二百八十九年に亙る間の治亂盛衰と民情世態を明らかにするに在りて、本文の頁數一千四百八十二頁、附録また百八十三頁の大を致せり。 曩に縣史第一編の成りし時、普く識者の批評を求めたりしに、多少の瑕疵を指摘せらるゝと共に、概ね編纂當事者の恪勤にして、能くその功を竣へたるを擧げ、内容の比較的整理せられ、資料の採訪亦潤澤なるを賞せられたり。然るに第二編に在りては、前者と頗る趣致を異にし、記載せられたる史實が、その發展せる時間の短少なるに拘らず、穿鑿の度に於いて細密を加へたるが故に、文章の緊張を缺き、閲讀の煩雜なるべき虞なしとせず。是を以て全體としての成績に於いて、果して第一編の如くなり得しや否やを知らずといへども、編纂當事者が累年此の如き尨然たる大册を完成し得たる努力は、之を認むるに吝なること能はざるなり。 抑一國文化の核心を距ること遠き一地方に在りては、その史實、邦家の大勢と交渉するもの少く、爲に興味の甚だ索然たるを免れずといへども、多年こゝに棲息せる民人の風格は、その雰圍氣中に醞釀せられたるものなるを以て、亦決して之を忽諸に附すべきにあらず。我が石川縣人が鬪爭凌轢を好まず、温厚恭虔の點に於いて、海内稀に見る所なりとせらるゝもの、一は佛教篤信の結果なりといへども、亦一は前田氏歴世寛仁の政治に浴したるが爲ならずんばあらず。而してその弊の赴く所、因循姑息となり、優柔不斷に陷れるもの、亦同一の源因より來る。本編を讀む者、能くその由來を極め、以て縣下の淳風を助長し、汚習を芟除するに努めば、史學獨自の目的に供する外、別に得る所あるべく、本縣が之を出版したる所以のもの、亦將に大に報いらるべきなり。 昭和三年三月 石川縣知事中山佐之助