徳川氏の覇府を開きしより上下約三百年、侯伯の地方に分封せらるゝもの、慶長の古に在りては百九十餘家を算し、慶應の初に當りて二百六十餘家を數ふ。而して慶長の侯伯たりし者は、必ずしも慶應に於いて侯伯たらず。慶應の侯伯は、又必ずしも慶長に於いて侯伯たりし者にあらず。況や溯りて豐臣氏の世に及び、降りて廢藩置縣の時に至るまで、子孫奕葉祖宗の祀を斷つことなく、星霜多年領邑の域を變ずることなかりしもの、指を屈して果して幾何をか得べき。吾人は前田氏がその一にして、且つその巨擘たりし點に於いて、加賀藩史を繙くに際し特種の興味を感ぜざるを得ず。 前田氏の祖利家は、天正三年越前府中に封ぜられたるを以て、足跡を北陸に印したる初とし、九年には小丸山城を築きて能登一圓を治し、十一年には佐久間盛政が柳ヶ瀬の役に敗れたる結果として、その遺領加賀の二郡を得、直に金澤城に移り住めり。石川縣史第二編の記述は、即ちこの時を以て起る。當時佐々成政隣國越中の富山に在り、利家の勢力を覆して雄を北陸に稱へんと欲し突如として我が末森城を襲ひたりしが、企圖空しく成らずして退嬰し、次いで秀吉の遠征に遭ひて領土の大部を喪ひ、更に易封を命ぜられて闔國前田氏の有に歸せり。利家の微纖より起りて侯伯の列に居るを得しもの、實に故右府信長の恩眷に因るといへども、封土三國に跨り、位月卿に班し、官亞相に陞るを得しもの、實に初は畏友たり、後には良主たりし秀吉の惠澤たらずんばあらず。是を以て一朝不幸にして伏見城内愁雲の鎖すを仰ぎ、阿彌陀峰頭苦雨の濺ぐを望み、遺孤秀頼によりて加賀爺と呼ばるるに至りては、悽惻斷膓の思に堪へず、願はくは百年の齡を延べて、幼君の天下に號令するを見んと欲せしなるべし。而も天命多くは人事に非、秀吉の薨後僅かに八閲月にして、己も亦早く黄泉に赴くを餘儀なくせらる。天文弘治以降兵馬倥傯の時に會し、興亡成敗の跡恰も走馬燈の觀あるを熟知せる利家が、臨終の心事果して如何なりしぞや。蓋し以爲く、内府家康の智と勇と忍耐と幸運と、天下誰か能く之と比肩すべき。如かず兒利長をして彼の指揮に任ぜしめ、天祐尚故君にあらば、則ち内府と共に大坂を擁護すべく、世態の常則を免る能はずんば、秀頼と共に江戸に葵向すべし。若し夫關東の將士、勒を並べて西上するに至りては、機に臨み變に應じて事を謀るべきなりと。吾人は利家の肚裡實に此の如きものありしや否やを知らずといへども、之をその子利長・利常の行藏に徴するとき、或は此の如くなりしにあらざるかを疑ひ、而して前田氏の十四世に亙り、常にその社稷を失はざりし所以も、提封百萬を有して侯伯の第一に居り得し所以も、加越能三州の士民が鼓腹撃壤の樂を享有し得たりし所以も、將た王政維新千歳一遇の時に會しながら、風雲に駕して天下に雄飛する能はざりし所以も、善も惡も、吉も凶も、皆悉くこの不文の藩是より發露せしものたることを信ぜんと欲す。 果然第二世利長の時、東西の兩勢力は乾坤一擲の輸贏を決せんとし、互みに我に向かひて參加を交渉し來れり。利長たる者何れに左袒し、何れに右袒せんとするか。大義名分は如何、利害得失は如何。他年聚樂第の行幸に陪して人生の歡樂を盡くしたりし日を顧みれば、豐臣氏の厚誼決して蔑如すべきにあらざるも、新たに慈母芳春院の千代田城に質となれるを思へば、抗敵の結果甚だ恐るべきあり。且つ家康の敵とする所は、表面上秀頼にあらずして、毛利輝元たり、上杉景勝たり、石田三成たりしが故に、假令利長にして東軍に與することありとも、強ち忘恩の行動としもいふべからず。是を以て利長は、欸を西軍に通じたる加賀の山口・丹羽諸將と交刄し、徳川氏が戰勝を得たる餘慶に浴して、彼等の遺領を併合し、加越能の太守たる地位を占め得たり。而も是より後豐臣氏の勢力寸退尺卻、遂に家康の征夷大將軍に任ずるに及びて、主從の關係明らかに顚倒するや、利長不快の念流石に忘れんとして忘るゝ能はざるものあり。終に家康の軍職を秀忠に讓りて、家門の基礎全く確立するを見るに及びて、己も亦秀忠の女婿たる弟利常を藩主たらしめ、秀頼が賢君たるの資を備ふるに拘らず、女子と小人との頻に策を失ふを憫み、積年の病苦に意氣沮喪して、高陵郊外一坏の土と化し去れり。 大坂の役は、利長物故の後六ヶ月にして起る。利常が婦翁秀忠の爲に最善の努力を致したることは論なく、豐臣氏最後の大悲劇を演出すると同時に、徳川氏と前田氏との爲には世情頗る有利の發展を見たり。特に將軍家光が、水戸中納言頼房の女を養ひて世子光高に娶はすに及びて一段の親善を加へ、更に利常の小松に老し、封を光高・利次・利治の三子に分かつや、加賀・富山大聖寺の三藩鼎立して本支相援くること、恰も家康の尾水紀を置けるが如くならしめき。是に於いて家運の隆昌期して待つべしとせられしに、好事魔多く光高僅かに三十一歳にして江戸邸に急死し、その子綱紀は三歳にして家を繼げり。この際幕府と加賀藩との關係を圓滑ならしむべきもの、一に光高の後室あるによりしが、夫人も亦久しからずして逝去せしかば、老侯利常の困屯殆ど言ふべからざるものあり。則ち之が缺陷を補はんが爲に、家光の弟保科正之の女を迎へて綱紀の伉儷たらしめ、正之を仰ぎて綱紀の輔佐となし、以てその成人を待つの策を講じたりき。婚姻政策の行はるゝこと封建の諸侯悉く然らざるものなしといへども、常に此の如き成功を見たるは、亦提封の鉅大なりしに因るとすべし。綱紀は長命富貴治を施くこと七十九年、幕府に在りては家光・家綱・綱吉・家宣・家繼・吉宗に亙り、皇室に在りては後光明・後西・靈元・東山・中御門諸帝に渉る。綱紀の天稟英爽嚴明、政を勵み法を整へ、特にその學問に忠實なるの點に於いて、綱吉・光圀二人に比するも遜色あらず。士庶太平を謳歌し、老幼歡樂に陶醉し、極盛極治實に前後に類を絶せり。而も絶巓に攀ぢたる時は、即ち谿壑に降るの時たるを思はざるべからず。次世吉徳の時、財政漸く紊亂に赴きたるもの、時代の推移に伴ひたる生活の向上と政務の激増とに因れりといへども、亦以て綱紀の時に於ける收支の均衡を失ひたる結果たりしなり。而して吉徳の才、綱紀の俊敏を稟くる能はざりしといへども、財政整理が焦眉の急なるを痛感したりしが、當時巨祿を擁する門閥の老臣は、保守の人にあらずんば凡庸の徒にして、未だ以て改革の樞機に與らしむるに足らず。乃ち之を側近の小臣に求めて大槻朝元を得、庶政皆之に委任し、遂にその班を進め祿を重くすること常軌を逸するに至れり。恰もこれ元祿の柳澤吉保にして、寳暦の田沼意次なり。唯微賤に起りて權貴に上りし者、その弱點の顯るゝ所動もすれば慢心を生じ、地位を忘れ恩倖に狃れ、主君に迎合し僚友を侮蔑す。是を以て一たびその保護者を失ふや、政敵忽ち擡頭して之を倒さずんば已まず。朝元が失脚の理由實にこゝに存し、藩臣の要職に在る者、政權與奪の爲に反目爭鬪すること、亦この頃より頗る露骨となる。吉徳卒去の後、宗辰・重熈・重靖・重教皆壽ならず、治績の擧らざるもの亦故ありとすべし。治脩の學校を興し、孝義を旌表し、齊廣の勤儉を奬め、奢侈を禁じ、文武を盛にして士風を作振せんとしたるが如き、大に努めざるにあらざりしも、既に江戸文化爛熟の時に際して、効果の之に報いられしものあるを見ず。齊泰の治世が四十五年に及びしは、その久しきこと綱紀に亞ぎ、温柔寛弘、能く大國に君臨するの徳を備へたりといへども、米艦渡來以後の活舞臺に馳騁するの活氣横溢せりとすべからず。元治の變に藩論二派に岐れしが、急進攘夷を唱へたる長藩の京師より撃退せられたる結果、之を支持しつゝありし我が幾多の志士をして冥府に歸せしめ、世子慶寧も亦罪を幕府に侯たざるべからざるに至り、金紋梅鉢の光華初めて燦然たらず。是を以て藩はその名聲を恢復せんと欲し、征長の役に兵を安藝に進發せしめ、水戸浪士を防禦して降を越前に容れ、尋いで慶寧の世となるや、更に全力を盡くして奧越に轉戰したりといへども、尚中央政界に重きを爲す能はず。遂に全國侯伯と共に、版籍を朝廷に還し奉り、幾くもなく藩知事も亦廢官となるに及び、名實凡べて藩政の終末を告げたり。石川縣史第二編の記述はこゝに擱筆す。 本編の内容は、即ち略前に述べたるか如く、編者が專らその史料の蒐集に力を致せるは、大正十二年四月より同十四年三月に至る二ヶ年間とし、之が整理と淨寫とは、大正十五年九月より昭和二年六月に至る十ヶ月に於いてしたるが故に、その功程略第一編に同じ。但し本編の史料は、前人の努力による成本の多き點に於いて、前編と頗る趣を異にするものあり。假令ば前田侯爵家編輯方諸君子の著述に見るも、加賀藩史稾瑞龍公世家・加賀松雲公・芳春院夫人小傳・天徳院夫人小傳の如き紀傳あり。本藩歴譜・續本藩歴譜の如き家乘あり。加賀藩史料・舊金澤藩事蹟文書類纂の如き史料あり。若し夫尊經閣文庫に藏弃して、舊藩書類と稱せらるる記録文書に至りては、汗牛充棟の語を以てするも尚且つ足らざるを憂ふ。是を以て編者の苦心は、實に史料の寡少なるにあらずして過多なるに存し、如何にして之を精選すべきか、如何にして取捨を謬らざるべきかに在り。更にその判斷の正鵠を失はざらんとする努力に至りては、一般修史事業以上特に大なるものあるを覺えたりき。蓋し藩政時代に於いて藩の俸祿に衣食せる士人の記録は、藩侯の善行を稱し、藩政の美績を擧ぐるに急にして、その劣惡なるものに至りては強ひて之を蔽ひ、或は枉げてその眞を傳へざるものあり。編者といへども亦祖先以來加賀藩の祿を食むこと八世二百年。己は廢藩置縣の後に生まれたるも、尚侯爵前田家の恩澤に浴すること淺からず。この編者にして藩治の汚隆成敗を筆にし、而して是を是とし非を非とし、擧ぐべきを擧げ抑ふべきを抑ふるは、事甚だ困難ならざるが如くにして而も頗る容易ならず。況や編中に活躍する人物は、皆現に子葉を今日に遺すものにして、彼等は多く編者の師友たり故舊たるに於いてをや。故を以て編者は一切の私情を排して良心の命ずる所に從ひ、修史の目的を貫徹する以外何等他を顧慮せざるべきを期したり。その所論の適否に就いては、素より之を大方諸賢の批判に待たんと欲す。 藩政時代の石川縣は加賀藩のみの所管にはあらず、白山山麓に於ける幕府領あり、能登半島に於ける幕府領と土方領とある外、別に江沼・能美二郡に跨れる大聖寺藩のあるあり。是を以て大聖寺藩に關する史實も、亦その藩の存續年數と封祿とに比例したる程度に於いて、加賀藩と精粗を一致せしめざるべからず。然るにこの藩に在りては、置縣直後夙く圖籍を散逸せしめ、城市亦屢河水汎濫の害に遭ひて記録を流亡したるを以て、今や殆ど全く據るべきものなきに至りたるもの、眞に遺憾に堪へずとすべく、而して本編の僅かに藩治一斑を記するに留めしは、亦實に之に由るなり。 本編附載するに系譜及び侍帳を以てす。系譜は加賀侯の外、支族大聖寺侯・富山侯・七日市侯、及び加賀藩の老臣八家に關するものを載せ、侍帳は藩末に近き加賀藩及び大聖寺藩士の分限を記したるものなり。並に前田氏の史實を考究するものゝ、屢參照を要する所なればなり。 昭和三年三月 石川縣囑託日置謙識