何れの時に於いて何人が何れの土地を支配せしかを知るは、藩治時代の歴史を闡明するに於いて、最も必要缺くべからざることに屬す。故に本編先づこれを通觀し、然る後加賀・能登の領主たりし前田氏に關する史實を詳述せんとす。 加賀に在りては、天正三年織田信長の柴田勝家をしてこれを征せしめし時、阿閉貞秀に江沼郡を、堀江景忠に能美郡を與へ、又戸次廣正を江沼郡大聖寺に置きしが、八年に至り更めて石川・河北二郡に佐久間盛政を、石川郡松任に徳山則秀を、江沼郡大聖寺に拜郷家嘉を、能美郡小松に村上義明を封じたりき。之と同時に、能登に在りては、天正五年畠山氏亡び、闔州一時上杉謙信の指揮に屬し、次いで七年温井景隆・三宅最盛兄弟は七尾城を奪ひて國土を押領せしが、翌八年長連龍の景隆等に勝つに及び、景隆等城を信長に献じてその罪を謝したるを以て、信長は連龍に鹿島半郡を與へて福水に居らしめ、又菅屋長頼を同郡七尾に、前田利家を羽咋郡菅原に、福富行清を同郡富木に置きて國政を掌らしめき。然るに九年十一月に至り信長、利家を以て能登一國の主となしゝかば、利家は鹿島郡小丸山城に移りてその地を七尾と改稱し、長頼と行清とは國を去り、連龍は利家の與力としてその麾下に屬せり。