村上義明は小松に在りたること、前後十八年の久しきに亙りたるを以て、民政上多少の力を致しゝことあるべきも、今全くその跡を探ること能はず。唯纔かに天正十九年能美郡長田村に與へたる檢地帳と、一は某年湊浦に與へて米穀の輸入を禁止せる通牒と二通の文書を遺されたるのみ。米穀輸入の制止は、即ち領内に於ける求價の低落を豫防し、給人の生活を安定ならしめんとの政策に外ならず。而して是等の文書は、皆その名を周防守頼勝と署し、義明といへるものあるを見ず。蓋し藩翰譜等に之を義明に作りたるは、頼勝の後の諱なるが如し。 我等領内え、他所より米出人堅相留候。萬一かくし米入候者、聞付次第、類親ニ相懸、可令成敗候條、成其意べく候。恐々謹書。 周防守 正月廿五日頼勝在判 湊浦 〔能美郡湊村熊田氏文書〕 村上頼勝下知状能美郡熊田源太郎氏藏 [村上頼勝下知状] 慶長二年堀秀治移封の後に於いては、山口宗永大聖寺に在りて七萬石を領し、丹羽長重は小松に移りて八萬石を加へ、松任と共に十二萬石の主となれり。三年四月前田利家退隱して、加賀の石川・河北二郡、能登の口郡中一萬五千石、越中射水郡氷見庄、合はせて二十六萬石を養老封とし、利長家を襲ぎて越中の礪波・婦負・新川三郡、射水郡の殘部、及び能登の鳳至・珠洲二郡を得たり。次いで翌四年閏三月利家薨ずるや、その加賀石川・河北二部と越中射水郡氷見庄とは利長之を繼ぎ、能登口郡一萬五千石は利政之を受く。利政は文祿二年より既に能登の一部を領せしなり。