慶長五年豐臣氏の徳川氏と釁端を開きし時、山口氏と丹羽氏とは西軍に黨し、前田氏は東軍に應ぜしかば、八月利長は宗永を攻めて之を滅し、九月長重と和せり。既にして利長上國に赴き、十月十七日家康に謁せしに、家康は榊原康政を遣はし、利長が北國平定の功を賞して、丹羽氏の舊領能美郡八萬石及び石川郡松任四萬石、山口氏の舊領江沼郡七萬石、前田利政の舊領能登口郡を加賜したりき。利政はこの役に徳川氏を援けざりしを以て封を除かれしなり。是に於いて加賀・能登・越中の三州十二郡、悉く利長の有に歸せしが、十年その富山に老するに及びて、自ら新川郡二十二萬石を食み、餘は之を弟利常に讓れり。十七年利長また養老封中の十萬石を割きて之を利常に還したりしが、十九年その薨ずるに及び全領再び利常の統轄する所となる。

加賀・越中能登三ヶ國之事、一圓被仰付候訖。然上者守此旨、可抽勤者也。仍如件。
慶長十九年九月十六日家康在判
加賀侍從(前田利常)どのへ
〔越登賀三州志〕
○

加賀・越中・能登三ヶ國之事、任今年九月十六日先判之旨、永不可有相違。然上者守此旨、彌可勵忠勤之状如件。
慶長十九年九月二十三日在判(秀忠)
松平筑前守(前田利常)殿
〔越登賀三州志〕
○

加賀・越中・能登三ヶ國百十九萬二千七百六十石[目録在別紙]任去慶長十九年九月十六日同二十三日兩先判之旨、全可有領知状如件。
寛永十一年八月四日家光在判
加賀中納言(前田利常)殿
〔越登賀三州志〕