明暦元年白山嶺上神祠修造の權利に關し、加賀藩の領民と越前藩の領民と紛議を釀し、容易に解決を見ず。幕府乃ち寛文八年に至り、加賀藩に屬する能美郡尾添・荒谷の二村を削りて、越前領たりし白山山麓の牛首・風嵐・島・深瀬・下田原・鴇ヶ谷・釜谷・五味島・女原・二口・瀬戸・新保・須納谷・丸山・小原・杖十六ヶ村と共に、之を幕府直轄の地となし、加賀藩に對しては、その代償として近江高島郡海津の中村を與へたりき。是を以て享保二年將軍吉宗の前田綱紀に與へたる判物は左の如く、その目録も亦寛文四年のものに、近江國高島郡之内今津村・弘川村高貳千貳百六拾石貳斗八升壹合とありたるを、近江國高島郡之内三ヶ村貳千四百三拾石餘に増加したるを見る。 加賀・能登・越中三箇國百貳拾萬貳千七百六拾石之内、加州江沼能美二郡之内七萬百七拾石餘、越中婦負・新川二郡之内拾萬石、能州四郡之内壹萬石、以上拾八萬百七拾石餘除之。殘百貳萬貳千五百九拾石餘、并近江國高島郡之内三ヶ村貳千四百三拾石餘、高百貳萬五千石餘[目録別紙ニアリ]事宛行之訖。依代々之例領知え状如件。 享保貳年八月十一日吉宗在判 加賀宰相(前田綱紀)殿 〔越登賀三州志〕 天明六年能登國内の加賀藩領十七村を幕府領とし、幕府領八村を加賀藩領とす。これ千路潟沿岸その他に境界に關する論爭ありたるを避けんとしたるに因る。これより後千路潟は全く加賀藩の有となりたるのみならず、その幕府に與へたるは高千九百九十六石五斗にして、加賀藩の得たるは二千八十七石六斗九升五合二勺とし、利する所甚だ多かりしを以て、毎年金八百三十兩三分永六十二文五分を千路潟網打代として上納することゝなれり。千路潟とは今の邑知潟をいふ。この時加賀藩領となれるは、羽咋郡の千路・中山・上棚・二所宮・安津見・町・佛木・安部屋にして、幕府領となれるは羽咋郡の福水・阿川・燈・楚和・尊保・入釜・鵜野屋・切留・豐後名・地保・神子原、鹿島郡の田岸・別所・谷内・深浦・黒崎なり。これ等の中、福水・豐後名・神子原・田岸・外・別所・谷内・深浦は、元來加賀藩領と幕府領との入會たりしものとす。次いで文化七年三月更に幕府領の民政に凡べて前田氏の法令を適用せしめ、又納租の法を改めて永定免金納となし、田租・小物成一切を擧げて加賀藩より年額五千二百十九兩を幕府に納入することゝし、剩餘あるときは之を藩の所得たらしめき。後慶應三年加賀藩は能登が邊海の要地にして、海防の設備嚴重ならざるべからざるを以て、幕府の寄田たる名義を廢し、純然たる加賀藩領たらしめんことを請ひしに、幕府は年額金一萬五千兩を上納すべき條件により、七月二日之を許容せり。されば明治元年三月政府が、改めて舊幕府領を土方氏領と共に前田氏に寄田となしたるは、理に於いて稍疑ふべしといへども、かの六十二ヶ村が名義上既に藩有たりしに拘らず、年々定額の金子を幕府に納入したるの實際に從ひたるものなるべし。