後慶長三年四月二十日利家老を告ぐるに及び、秀吉はこの二邑を利家の室芳春院の化粧料とし、芳春院の元和三年に歿するや、所屬暫く不明となりしが、同六年將軍秀忠は改めて之を前田利常に與へ、次いで寛文八年加賀能美郡の尾添・荒谷を幕府に收め、その代償として近江海津の内中村町の地百七十一石九斗八升を與へたるを以て、爾後加賀藩の近江に有する所、凡べて二千四百三十三石二斗六升二合となれり。 大聖寺藩領が萬治三年以降江沼郡全体と能美郡中の一部となりしことは前に述べたる如くなるが、その江沼郡は百三十四ヶ村にして高六萬五千七百三十一石五斗九升を算し、能美郡は串・佐味・日末・松崎・島・馬場の六ヶ村にして高四千三百二石一斗四升なり。之を以てその合計は七萬三十三石七斗三升となり、内三十三石七斗三升は籠高とす。寛文四年四月五日前田利明の受けたる朱印状は是に據る。次いで享保二年八月十一日前田綱紀に與へたる朱印状には、大聖寺藩領を七萬百七十石餘としたるが、しかも實際に於いては、この兩郡百四十ヶ村中に一萬千八百六十六石七斗五升の新田あるのみならず、別に延寳八年八月に開發したる矢田野新田九ヶ村、即ち西泉・大野・豐野・原田・中・小島・袖野・稻田・宮田の千八百三十一石二斗一升三合ありき。後世に至り大聖寺藩領は、常に百五十三ヶ村と稱せらるゝに至りたるが、そは新田若しくは垣内を獨立の一村として算し、又は前に一村としたるを垣内として數へたるが爲にして、敢へて境域の上に變更を來しゝ結果にはあらざるなり。 加賀國江沼郡百三十四ヶ村、能美郡之内六箇村、都合七萬石[目録在別紙]事、如前々充行之訖。全可令領知者也。仍如件。 寛文四年四月五日朱印(家綱) 松平飛騨守(前田利明)どの 〔越登賀三州志〕 ○