加賀・能登・越中三國は殆ど全く前田氏宗支の領有する所なりといへども、その中能登に於いては若干の他領を混ずるものあり。今之を言はんに、前田利家の室芳春院の甥にして、利長の從弟に當れる土方勘兵衞雄久といふ者ありて、後には河内守に叙爵せり。雄久初め織田信長に仕へ、又信雄に屬し、次いで豐臣氏に臣事し、尾張犬山城に在りて四萬五千石を領したりしが、慶長四年石田三成の讒する所となりて、その封邑を放たれき。然るに翌五年關ヶ原の戰前に、徳川家康は雄久を使者たらしめて、利長との間に周旋せしめしことあり。因りて幕府はその勞に報いんが爲に陸奧(磐城)菊多郡窪田等一萬石に封じ、利長も亦越中新川郡布市等一萬石を分與せしが、同十一年能登の中、羽咋郡十八ヶ村・鹿島郡二十一ヶ村・鳳至郡二十二ヶ村・珠洲郡一ヶ村、合計六十二ヶ村一萬石の地を以て前領に易へたりき。蓋しその表面の理由は、布市等が利長放鷹の妨害となるといふに在りしといへども、この時利長は富山城に徙り、雄久の領する所之に近くして、實に須要の位置を占めたると、一は集團的封邑を與ふるの己に不利なるものあるべきを思ひ、乃ち表高は一萬石と稱するも、實數一萬三千石に上る地を與へて之を好遇するが如くに裝ひ、而して實は僻陬散在の地に封じてその勢力を削りたるものゝ如し。或は曰く、初め利長布市に放鷹せしに、道路の修理行はれず、爲に馬より墜ちたりき。利長大に怒り、直に郡宰を召して之を責む。郡宰告げて曰く、この地土方氏の釆邑に係るを以て、臣等如何ともする能はざるなりと。利長乃ち雄久の代官を招きしに、會々その家に在らざりしを以て益激昂す。後雄久之を聞き、惶懼して利長の城邑を距ること遠き地に封を易へんと請ふ。因りてこの事ありしなりと。若しこの傳説を事實とするも、利長の嚇怒は即ち領邑交換の口實を得るに過ぎざるものたりしなるべし。 能州土方領は、土方勘兵衞儀、芳春院樣の御甥にて、利長樣御いとこに御座候故、御内證にて御合力に被遣候と相見え候。元越中の内に候處、利長樣御鷹野御好きに付、御障りに成候に付、能州へ御替被遊候由。利常樣江戸往來の御道に他領相交、御邪魔にならせられ候に付、能州へ御替被疑候由申は、一向御信用難被成事に候。他領惡く候はゞ、境より江戸迄は不殘他領に候へ共、指支へ申儀無之候。利長樣御鷹野の御障に成申との儀は、ヶ樣に茂可有之事に候。但東照宮より大猷院樣まで御代々御領知御判物に、加越能一圓と有之候得者、土方領は公儀より被仰付候譯に而は有間敷候。其時分は、公儀へ御伺抔と申儀も無之時節に而、土方殿は御由緒有之に付、御内證に而御合力に被覆候儀、左樣に可有之事に候由。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕