能登の土方氏領は、雄久これをその次子掃部頭雄重に傳へ、河内守雄次・山城守雄直を經て、伊賀守雄隆に至る。延寳三年秋土方氏及び前田氏の領民互に境界に關して爭ふ。因りて加賀藩の公事場奉行菊池十六郎以下、算用場奉行・改作奉行・郡奉行等境界を正し、改めて土壘を築くこと一千餘、その壹所に銀四匁を費せり。土方氏乃ち太宰彌左衞門を使者たらしめて恩を謝せり。天和元年雄隆は本領武藏岩槻一萬石の中八百五十石及び能登領一萬石中の千石を割きて弟足部雄賀に與へ、而して雄賀は能登領千石の中百五十石を次子長十郎に分つ。貞享元年七月廿一日雄隆罪あり。將軍綱吉命じて雄隆の本領武藏岩槻九千石餘と共に、能登六十一ヶ村九千石を渡沒して幕府の直轄となす。次いで元祿二年八月十日この六十一ヶ村の内四十九ヶ村を、舊信濃高遠城主鳥居左京亮忠則の子播磨守忠英に與へ、殘餘の十三ヶ村を幕府直轄とせり。是等の村數にして前後一致せざる如く見ゆるものあるは、一村にして兩領に跨るものあればなり。同八年五月十五日忠英封を近江水口二萬石に益封せしめられ、能登の領知は幕府直轄となる。同十一年五月三十日舊備後福山城主故水野松之丞勝岑の族、水野數馬勝長に四十六ヶ村を與へ、殘餘十六ヶ村を幕府直轄とす。同十四年正月十一日勝長下總結城一萬三千石に轉封となりたるを以て、その領知復幕府直轄となる。同十六年土方長十郎、遠山内膳正政徳の養子となる。後に遠山主殿頭政貞といひしもの是なり。因りて長十郎の前領百五十石も亦幕府に歸し、土方氏の有する所、雄賀の領七村八百五十石のみとなり、子孫世々幕臣として、武藏に於ける所領と共に千七百石を食めり。