享保七年六月二十八日幕府能登の直轄地六十一ヶ村を擧げて、加賀藩に寄田となし、民政を一任せり。當時その草高一萬四千二十一石八斗四升三合八勺を算す。藩侯前田綱紀この報を得て大に喜べり。蓋し幕府の領地は加賀藩の封内に介在し、その施政は固より代官の掌る所なりしが故に、邑民中不逞の徒ありとも、藩に於いては直接に之を如何ともする能はずして、常に代官に交渉せざるべからざる如き事情に在りしを以てなり。この後加賀藩は、御預地方御用の職を置き、算用場奉行の兼務たらしめてその庶政を遂行せり。 享保七年六月二十八日老中水野和泉守(忠之)殿御宅え、開番御招に付、菊池甚十郎參候處、能州之内土方領壹萬四千石餘、日野小左衞門(日根野カ)御代官所、向後御領地(前田氏)に被仰付候條、政務之儀無遠慮被仰付、刑罰に可被行者は、領國之如人民而、尤不及被達上聞候。然ば二ヶ年(年々カ)物成被收納、一ヶ年分者金子を以壹萬三千石之高可被上之。山川竹木小物成者、都而不及被上侯。此段早速罷歸、宰相(綱紀)殿へ可申上音。御禮者御家老可然旨申來。 〔政隣記〕 ○ あるとき能登國のうち、代官日根野小左衞門正晴が支配する地の定めの簿をさゝげしを御覽ありて、加賀・能登・越中みな加賀守(綱紀)が所領とこそ思ひつれ、何とて代官の支配所領あるやと御尋あり。これは土方河内守雄久、石田がかたうどにて、佐竹家にめしあづけらる。この河内守は大納言利家の從弟なるが、のちみゆるしありて加州に御使せしを、利家申請て、おのが領地の内にて一萬石をあたへしなり。初は越中岩瀬なりしが、後に能登の内にうつさる。其後河内守が孫の時にあたり、罪ありて所領を收公せられ、永く御料の地となれり。今もその所を、かの國にては土方領と字すといふことまで、つばらにしるして聞えあげけるに、享保七年六月二十八日かの代官所を外にうつされ、其地はながく加賀守にあづけ給ひければ、加賀守もおもはすなることにて、ことさらに眉目をほどこしけり。これも年頃の徳義をおぼしめされての事とぞ聞えし。 〔徳川實紀〕