是より先、羽柴秀吉は明智光秀を斃し、柴田勝家を斃し、神戸信孝を斃し、西は毛利氏と和し、東は上杉氏と結び、金城湯池を大坂に起して、己既に天下に主たるが如き勢を示せり。織田信長の遺子信雄之を見て、心中自ら平らかなること能はず。遂に天正十二年三月秀吉と斷ちて援を徳川家康に求め、次いで秀吉の兵を率ゐて尾張犬山に陣するに及び、信雄・家康の聯合軍は小牧に在りて之と相對峙せり。四月秀吉の部將池田信輝間道より兵を進めて、家康の領邑參河を衝かんことを請ふ。秀吉深くその輕進す可からざるを警めて之を許しゝに、家康は敵の動靜を偵知し、直に信輝を長湫に襲ひて之を殺せり。五月秀吉は諸將を留めて樂田を守らしめ、自ら尾張・伊勢を往來して諸城を修め、次いで羽津に陣す。時に信雄は桑名に在りしが君臣相猜疑して營中屢騷擾せり。秀吉この機に乘じ、人を遣はして信雄に和を勸めしに、信雄は之に應じ、十一月秀吉と矢田河原に會見し、翌十二月家康も亦その子秀康を質として歡を秀吉に納る。之を小牧の役の梗概となす。 この役、前田利家は素より秀吉の與黨たりしが故に、老臣長連龍をして兵一千人を率ゐて之を援けしめき。而して秀吉に對して無二の同盟たりし利家の、自ら馬を東海に進めずして金澤城に晏如たりしは、越中の佐々成政を監視するの任務を帶びたるによる。蓋し成政の父祖は尾州春日井郡比良の城主たり。されば身を微賤に起したる秀吉の如きは、彼が眼中のものにあらず。必ずや機を得て之を一蹴し、以てその自尊心を滿足せしめんと欲したるなるべく、彼が賤ヶ嶽の戰後暫く秀吉に屈服したりしは、實に一時の方便に過ぎざりしなり。然るに今や信雄・家康の二人が秀吉と相反目するを見、彼は好機逸す可からずとなし、直に南下して加賀を侵し、一な平素犬猿啻ならざる利家を屠り、一は遙かに秀吉の勢力を牽制し、その功によりて織田氏より、北陸の覇者たる己の地位を認められんことを期せり。