利家夜話によれば、成政が利家を陷擠せんとしたる計畫は、極めて愉快なる脚色を以て傳へらる。曰く、この年七月成政は、立山山麓の險難沙羅沙羅越を超え、信州松本より東美濃を經て、信雄・家康二人の所に至り請ひて曰く、余將に旗を飜して遙かに公等の爲に力を致さんと欲す。他日功若し成らば、願はくは余に賜ふに北陸五ヶ國を以てせよと。既にして成政國に就き、巧に術策を廻らし、旨をその臣佐々平左衞門に傳へ、京師の商賣油屋某が利家の臣村井長頼と舊あるを以て、彼をして長頼に謂はしむるに、成政の後を嗣がしむべき男兒なきが故に、利家の子又若を養ひて女婿たらしむるの意あることを以てせしめき。長頼聞きて之を利家に告げしに、利家も亦異議なしとの意を漏らせり。是に於いて成政は公然平左衞門を使者たらしめ、又若を得んことを利家に交渉せしめしに、利家は直に快諾し、平左衞門に厚く物を賜ひて之を還せり。尋いで利家は、長頼を遣はして答禮の意を致さしめ、且つ佳辰を擇びて速かに之を實行せんことを計りしに、成政は七・八兩月の祝賀を擧ぐるに適せざるものあるを以て、暫くその期を緩くせんことを求めたりき。然るに成政の茶坊主に養頓といふ者ありしが、八月十八日長頼の臣小林彌六左衞門を訪ひ、成政が近時屢老臣を城樓に會せしめ、前田氏を撃たんが爲に協議する所ありとの事を密告せり。これ養頓の彌六左衞門と舊識ありしによる。利家聞きて大に悦び、乃ち金二枚を養頓に與へて歸らしめ、急に長頼を國境朝日山に遣はして壘を築き守らしめたりと。越登賀三州志にも亦この説を採れり。然れども甫庵太閤記及び家忠日記によれば、成政の家康に會したるは末森役後の事に屬せり。加之ならず成政は、利家が信長の小姓たりし時より惡感を抱けるものなり。假令成政にして利家の子を養はんといふも、利家如何ぞ之を諾せんや。且つ夫れ侯伯の互に嫁娶を議するもの、その行動實に正々堂々たらざるべからず。然るに成政が初め一商賣によりて、利家の内意を探らしめたりといふもの、事既に頗る奇怪なるにあらずや。假令利家夜話に、之を利家の直話なりと記するにもせよ、恐らくは後人の攙入する所たるべきなり。