成政が利家の警戒を怠らしむるが爲に、果して前述の如き奇計を用ひたりしや否やは、今暫らく措き、東海道に於ける戰局の發展と共に、佐々・前田二氏の間も頗る緊張せしものありしは事實とすべく、當時前田氏側に在りては、前田秀繼・利秀父子を越中往來の要衝津幡城に置き、目賀田又右衞門・丹羽源十郎を國境鳥越城に置き、村井長頼・高畠九藏・原田又右衞門を同じく朝日山に派し、前田安勝・前田良繼・高畠定吉・中川光重をして能登の七尾城を守らしめ、長連龍を同國徳丸城に居らしめ、而して加・能二國の連絡を失はざらんが爲に、末森の壘を固くしたりき。 能登・加賀の間、つなぎの城なくては叶べからず。何れの所か宜しかるべきと評議しけるに、唯末森の城兩國の堺目なれば、是に増たる所侍らじと、各一決してぞ申しける。利家も内々かく思ひ寄し事なれば、啐喙に同じ、此城には武之備も在て信厚く、萬の裁判も兼備りたる者にあらずばおぼつかなし。奧村助右衞門尉を城主に定め宜しかりなんと思ひしか共、家老の者共に評議なくてはかなはじと、各を呼あつめ件之旨申出され、誰か宜しからんと尋られしに、十に七八助右衞町尉を指にけり。利家心地よげに打笑、吾も内々奧村を思ひ寄しとて、即助右衞門尉を末森之城主と定られしなり。寔に先祖の面をおこし武運にかなひたる奧村かなと、人皆申あへりき。かくて吉日を撰、助右衞門・同嫡子助十郎・二男又十郎、一族繁榮の粧を刷(カノツクロ)ひ、天正十一年五月七日入部の規式いとゆゝしくぞ見えたりける。 〔甫庵太閤記〕 末森城址遠望在羽咋郡柏崎村 末森城址遠望 末森城が要害の地に在ることは、實に甫庵太閤記のいふが如し。然れどもこの城は、舊と土肥但馬の據りし所にして、但馬が柳ヶ瀬に戰死したる後、天正十一年五月利家は奧村永幅をして之を守らしめ、但馬の老臣土肥伊豫そして之に副たらしめしなり。成政との關係危機に臨むに及びて、初めて永福を置きしにはあらず。その入部の日附は、後掲誓文日記に五月十一日に作れり。