前田氏に對する佐々氏側の配備は、倶利伽羅の壘を最前線と爲し、佐々平左衞門・野々村主水をして之を守らしめ、井波城には前野小兵衞を將とし、阿尾城には菊池伊豆守及びその子十六郎あり。越中・能登二國の境界在る荒山を以て遙かに七尾城に對せしめ、神保安藝守氏張の家司袋井隼人を置き、守山城には氏張及びその子にして成政の女壻たる清十郎氏興あり。而して成政は、自ら富山城に居りて四方に命令せり。 天正十二年八月二十八日成政先づその將佐々平左衞門・前野小兵衞二人に命じ、河北郡松根及び横根方面より前田軍の朝日山を襲はしむ。時に朝日山は、壘柵僅かに成りたるを以て、士卒滯陣の準備を成さんとして金澤に歸りたるもの多かりしが、偶阿波加五郎左衞門・江見藤十郎が、城主村井長頼の安否を訪はんが爲こゝに來るありしかば、長頼は二人に託して、佐々勢の出動せることを金澤に報ぜしめき。利家之を開き、直に不破彦三勝光・種村三郎四郎・片山内膳延高・岡島帶刀一吉等を率ゐて赴援せしに、越中軍は大雨に會して急攻する能はず、且つ利家の後卷したるを聞きて退却せり。利家乃ち長頼に賞詞を與へて金澤に歸る。 九月四日利家使を秀吉に遣はし、成政の反状既に顯れたるを告ぐ。時に秀吉美濃に在り。長湫の失敗以後、到底急に家康を屈服せしめ得ざるべきを知り、且つ家康と雌雄を決せんが爲に、その全力を傾倒するの不利なるを思ひしを以て、丹羽長秀を介して調停を計らしめつゝありしが、利家の報を得て大に悦びて曰く、吾輩夙に成政の操守なきを知る。是を以て利家を金澤に置きて、彼の進路を扼せしめしなり。若し夫れ成政・利家二人をして互に相戰はしめば、利家の軍假令寡少なりとするも、その勇武尚能く成政の勢を摧くを得べし。たゞ加賀・能登二國、越中に境する所甚だ長きに過ぐるが故に、一朝成政の之を突破するあらば、防禦の頗る困難なるものあるが如しといへども、利家かの地に在らん限りは、以て意を安んずるに足るべし。不日東海の干戈戢まらば、余直に往きて利家に力を戮さんと欲す。望むらくは自ら進みて戰端を開くことなからんことをと。即ち使者を賞して黄金三十枚を與へ、別に書を裁して利家・利長父子に應へたりき。 四日の御状、今日到來令披見候。此表之義所々手堅依申付、敵方種々有懇望候。三介殿御料人(信雄女)、家康惣領子十一(秀康)に成候を被出、其上家康舍弟(定勝)重而出、石川伯耆實子、源五(織田長益)殿・三郎兵衞(瀧川雄利)實子出し、尾張國におゐて雖懇望候、不能許容候處に、色々越前守(丹羽長秀)異見被申候條、思案半之儀に候。然ば越州廿日比には、何之道にも可爲開陳候。越中え行義、はや越州と令談合相定候間、佐々内藏助山取以下仕候とて、聊爾なる働御無用に候。うちばに被相構、越前守被罷越候を可被待義專用に候。自然不被待に付越度候而者、可有其曲候。猶使者へ申渡候。恐々謹言。 筑前守 九月八日(天正十二年)秀吉在判 前又左(利家) 御返報 〔温故足徴〕 ○ 至境目、佐々藏助罷出付而、各被相動(働)、情入由尤候。此表丈夫に申付、人數不入候條、惟越五三日中(惟住越前守長秀)に開陣候て、財其表へ出陣候。其間を無越度樣に、聊爾之働有間敷候。爲其申遣候。恐々謹言。 筑前守 九月八日(天正十二年)秀吉在判 前田孫四郎(利長)殿 御陣所 〔温故足徴〕