越中軍の一たび朝日山攻撃に失敗するや、幾ばくもなく成政は神保安藝守氏張・土肥美作政繁・狩野將監等をして、兵三千を率ゐて鹿島郡荒山に出張せしめしが、美作・將監等は更に井田・小竹に兵を進めて、その先陣已に徳善川原[一作諏訪川原]に至り、氏張も亦自ら二ノ宮に陣し、足輕大將畑彌七郎をして、足輕五十人を率ゐて火を所々の民屋に放たしめき。是に於いて徳丸城に在りし長連龍は、鈴木因幡の軍を東馬場の窪田が舘に遣はして防がしめしに、鈴木源内・三宅善丞・小林平左衞門・阿岸與市右衞門・飯塚源左衞門・田邊七郎左衞門・外山帶刀・長壹岐・長市右衞門等百五六十人は舘を守り、足輕の將石黒彌治右衞門及び長谷川新左衞門は配下を率ゐて放銃の事に當れり。既にして因幡は一策を案じ、河水を附近の田に引きて漲らしめ、故らに須賀豐四郎をその中に立たしめ、水深くして容易に渉り難きの状を示したりき。時に神保氏張は畑彌七郎を斥候として出しゝが、途に長氏の士飯塚源左衞門に邂逅せり。二人は元來兄弟なるを以て、互に久濶を叙して相語りしが、源左衞門曰く、此の舘川を以て圍まれ、水深くして攻撃容易ならす。若し強ひて近接せば鏖殺の設あり。之に加ふるに七尾の諸將亦將に來援せんとすと。彌七郎歸りて氏張に告げしに、氏張は之を信じ、兵を麾きて退却せり。この時運龍は徳丸を發して來りしに、恰も小林平左衞門・長壹岐・三宅善丞・阿岸與市右衞門・鈴木源内等が、各途を分かちて神保軍を追跡するに會せしかば、共に進みて徳善川原に至り、敵首數級を得たり。氏張乃ち荒山の壘に袋井隼人を遺して退き、連龍は小林平左衞門を使者として首級を利家に上り、又捷を七尾の諸將に告ぐ。是を以て七尾の將前田安勝・前田良繼・高畠定吉・中川光重等進みて荒山を攻め、以て越中軍の侵入に報いんとせしも、壘堅くして拔くこと能はざりき。東馬場・荒山の戰に關しては、諸書に見る所なし。たゞ長氏家譜に之を傳へたるのみ。