成政の軍は先づ加賀方面を脅し、次いで能登方面を襲ひしも、共に何等の好果をも得る能はざりしを以て、將に大軍を動かして末森城を陷れ、加・能二國の連絡を截斷して大に爲す所あらんと計畫せり。因りて成政の軍は、九月八日の夜に入りて木船を發し、礪波郡宮島より澤川に出で、その地の農田畑兵衞を嚮導たらしめて羽咋郡牛首に向かひ、更に西方庵といふ者を先驅となして山路を越え、その先鋒は吾妻野・天神林に進み、本隊は坪井山麓に營を布けり。或は曰く、田畑兵衞は素より心を前田氏に歸したるを以て、故らに越中軍をして險難の樵路を越えしめき。是を以て越中軍の疲憊甚だしく、十一日に至りて僅かに吾妻野に達することを得たりと。この説固より虚誕にして採るに足らず。蓋し成政が末森城包圍の形勢を取りしことの九日にあるべきは、之を諸書に徴して明瞭なる事實なればたり。然りといへども兵衞が越中軍を嚮導せんとする際、直に之を奧村永福に密告せりとの事は、田畑家の由緒に傳へらるゝ如くなるべく、兵衞は後にその功を賞せられて、祖先傳來の山林を利家より安堵せしめられたりき。この山林の廣袤は幾何なりしやを知らずといへども、慶長十年礪波郡檢地の時に至り定めて高十一石三斗とせらる。 一、私先祖田畑兵衞、能州口郡の領主三宅彈正家秀より、能州羽咋郡志雄之保南山之蛇崩・十八尾・泉原と申山三ヶ所被扶持候。折紙今以所持仕申候。 一、天正十二年、能州末守奧村助右衞門殿御在城之刻、越中木舟より佐々内藏助殿御人數被催、末守え被押懸候刻、私先祖田畑兵衞先達而奧村助右衞門尉並金澤え茂御註追申上候。就夫高徳院(利家)樣に助右衞門殿より御申上候處に、御出馬被爲成候。高松濱之手より御通被爲成、御後卷被爲遊候處に、佐々内藏助殿御引被成候。其後先祖田畑兵衞被爲召出、奧村助右衞門殿御取次を以、何樣の儀に而も望可申上旨被爲仰出候に付、古より支配仕來候山奉願候處に、持傳候山爲御扶持天正十二年十一月六日御書頂戴仕、名を高桑兵衞と被爲成下候。然處其以後亂妨に逢申刻、右之御書御文言之内さきとられ、者也仍如件と御座候所、高桑兵衞と御宛所、御判、年號月日付迄殘御座候故、奧村助右衞門殿え其段御斷申上候。若御判之物さきとられ候御文言之冩、並御判年號盡日付、又は相殘御文言、高桑兵衞と御座候所、今以所持仕申候。 一、右亂妨に逢、御書さきとられ候に付、天正拾九年に奧村助右衞門殿御取次を以て、持分之山前々通爲御扶持、同年十一月七一高徳院樣御印御改被爲下、名を御替、田はた兵衞と被成下、御印頂戴仕、其御印を以二代目田畑兵衞・三代目田畑兵衞茂、無相違支配山被爲下成候。則御印今以所持仕申候。 〔田畑兵衞由緒帳〕 ○ 志雄之保南山之内、蛇崩十八尾並泉原、如先規下付候。就其代替爲祝儀与、五十疋到來目出度候。猶豐田方より可申候、謹言。 九月三日家秀在判(三宅) 田端兵衞入道殿 〔田畑文書〕 ○ 其表之有姿聞屆致馳走に付而、持傳候山之儀令扶持候。於向後に不可有相違者也。仍如件。 天正十二年十一月六日利家在判 高桑兵衞殿 〔田畑文書〕 ○ 澤川の田はた持分の山、如前々令扶持之條、他方よりかりとるにおゐては可注進もの也。 天正十九十一月七日利家印 澤川 田はた兵へ殿 〔田畑文書〕