いづれも叙述の誇張を免かれざるが如しといへども、甫庵の夙く之を記したるを見るに、永福夫人の勇名は、當時普く喧傳せられたる所なるべし。然るに甫庵太閤記は、永福の妻を激賞したるに反して、千秋主殿助範昌の操守甚だ堅實ならざりしを述べていふ。越中勢は、永福の末森城を固守して、容易に之を屠る能はざるを知り、先づ範昌を内應せしめんと謀れり。範昌は越前の人にして、利家が同國府中を領せし以來の舊好たるを以て、命じて一方の物頭となし、末森城東ノ丸守備の任に當らしめられたりといへども、越中軍にも亦相識多かりしが故に、敵は能登二郡の領有と黄金一千兩とを懸けて之を誘致せんとせしなり。範昌以爲らく、この小城五三日を經ば之を支持し得べからず。空しく首級を敵手に委せんよりは、彼等の勸奬を容るゝの利なるに如かずと。乃ち往きて之を永福に謀りしに、永福は範昌を城樓に抑留して還さず、弟奧村加兵衞をして範昌に代りて東丸を守らしめき。是に於いて人の之を聞くもの、皆永福の清廉にして純忠なるに感ぜりと。甫庵のかく記したるものは、永福の大功を賞揚せんが爲、誤りて範昌を貶したるものにして、決して事實として信じ得べからず。範昌にして果して二心を抱きたりとせば、爭でか戰後利家の彼が『無比類働』を賞して、押水の内一千俵の大祿を加賜せしことあらんや。こゝに範昌の爲に寃を雪ぐ所以なり。