利家の從士に可兒才藏といふ者ありて、勇武を以て顧る。才藏はもと美濃國可兒郡の産、年十二にして利家に尾張荒子に仕へ、その後常に馬廻組に班す。末森の役才藏亦利家に從ひて陣に臨む。時に城主永福は大手角矢倉(スミヤグラ)に在りて軍令を出し、その子助十郎榮明は搦手より出でゝ敵を邀撃せり。成政の士佐々勝五郎之を見て榮明と合匁す。利家乃ち從士に命じて榮明を救はしめしに、才藏は直に進みて勝五郎を毆ちしが、その鎗柄半より折れたり。永福因りて樓上より鎗を投じて才藏に與へしに、才藏は之を取りて再び榮明に助勢し、遂に彼をして勝五郎を殪さしめき。後才藏は前田氏の麾下を脱して秀吉に從ひ、更に安藝に入りて福島正則の臣となる。開ヶ原の戰、才藏事によりて正則より蟄居を命ぜられしも私に軍に從ひ、自ら首級を獲るときは、その指物とせる竹葉を採りて耳鼻の中に插み、以て驗とせり。是を以て家康彼を呼びて笹の才藏といへり。後髮を削りて京師に隱棲し、名を才人と改め、居所を竹葉軒と號す。才藏の子某世を早くし、その子友庵は醫を業とす。才藏の自記したる誓文日記は友庵の家に藏する所なりしが、元祿七年加賀藩の醫阪井順安京師に在りて之を得、前田綱紀に上る。才藏と利家との關係は、即ち誓文日記によりて之を明らかにすべし。