末森役の開始するや、利家は十一日を以て第一報を上國に致しゝが、尋いで十三日に至り詳かに戰捷の状を秀吉に具申し、その獲たる敵將の首級を献じたりき。この文中に、七尾に在りし前田安勝が、成政の敗退せるに乘じ、能越の國界なる荒山城を陷れ、その城主以下を戮したるのみならず、更に鹿島郡勝山の壘を陷れて越中に侵入したりとのことあり。蓋し荒山は先に言へるが如く、神保氏張の部將袋井隼人の居りし所にして、勝山も亦氏張の築ける堡壘なり。この事他の諸書に所見なく、且つ誇張の甚だしきものなりといへども、機を誤りて末森の戰に參加し得ざりし七尾諸將が、利家に對する贖罪の意味を以て、十一・十二日の間に幾分の攻撃を敢行せしものゝ如く思はる。而して末森の役に關しては、素より利家の之を挑發したるに非ずといへども、彼は先に屢秀吉より、可及的愼重の態度を採りて成政との交爭を避くべしと注意せられたるを以て、その命を待たずして輕擧せりとの非難を得んことを慮り、一旦兵を金澤に旋したるものにして、若し秀吉の許諾を得るあらぱ、直に越中に入りて成政を屠らんと豪語せり。次いで十四日利家・利長は、書を青木善四郎に與へて戰況を報じ、敢へて妄動せざらんことを戒めたりき。善四郎は敵の荒山堡に對する警備の任に當りしものゝ如し。 此表一昨日如申上候、佐々内藏助、去九日能州末守取卷候旨注進之條、戌刻に加州金澤打立、能州へ十一日曉、則責候所へ不移時日切懸、鑓先にためずつき崩、藏助家中數人共之首、[注文付注進之候]其外數千餘討捕付而、藏助令破軍、栗柄(クリカラ)へ罷退候と申候。但慥には聞不申候。其競を以、七尾に有之同名五郎兵(安勝)へ(衞)、中川清六、越中内境目之荒山城へ被懸責崩、城主之事は不及申、悉刎首候付而、勝山同前落居候條、越中國へ付入候。追付雖可申候、自然御意をも不請、卒爾之働と被思召候てはいかゞと存、不及是非金澤へ打入、人馬之いきをつがせ候間、御意次第に彼國へ亂入、藏助可刎首を案之内ニ御座候。 九月十三日(天正十二年)前田又左衞門尉 筑州(秀吉)樣 〔奧村氏記録〕 ○ 今度越中衆打死人名、大分注進之候。 佐 々 喜右衞門野々村 主 水 助佐 々 新右衞門 齋 藤 九郎次郎久 世 又 兵 衞同又介 堀田次郎右衞門野 入 平右衞門 山下甚八 佐 久 間 勘 介本 庄 市 兵 衞佐 久 間 源 六[是は打死候と申候へとも首見へず候] 此外首千餘討捕之、大將分迄付進之候。以上。 九月十三日(天正十二年) 〔奧村家記録〕 ○ 爰元爲見廻。書状祝著候。今度於末森悉討果候。其元在番、機(氣)遣も少之間候。彌不可有由斷候。神保も歸候よし申候間、卒爾之働など無用候。最前申遺候其心得專一に候。謹言。 又左 九月十四日(天正十二年)利家在判 青木善四郎殿 御返事 〔温故足徴〕 ○ 御状披見候。仍今度は末森城取卷、端城令放火、本城計相殘候由申來に付、則又左衞門・我等懸付、即時追崩、大將分十一人、其外首千餘討捕候。手負死人數多有之候。於樣躰は可御心易候。其元彌丈夫に被仰付候由尤候。萬端御氣遣肝要候。將又牧長六右衞門書状到來候間、則遣之候。猶從是可申候。恐々謹言。 前係四 九月十四日(天正十二年)利勝(利長前名)在判 青木善四郎殿 御返事 〔温故足徴〕