秀吉が利家に與へたる返書に就いては、甫庵太閤記に九月十九日附のものあるを見る。然れども秀吉既に十六日附のものを送致したること前掲の如しとすれば、後者の文意甚だ怪しむべきものあり。况やその文中に、今度佐々内藏助が謀叛を企て、能州奧郡に發向するの行(テダテ)を成したりといへども、引違へて末森城に推し寄せたりといふは、全然事實にあらず。又首十二到來せるととを記するも、十三日附利家の書状に據れば、利家が秀吉に呈したるは成政重臣の戰死者注文付にして、首級その物を送致せざりしが如く、假令首級をも併せ送りたるなりと解するも、その中佐久間源六は戰死せりとの説あるも、首級を發見し得ざりしといふが故に、その數は十二にあらずして、十一ならざるべからざるなり。是を以て之を觀るに、太閤記に載せたる十九日附の返信といふものは、恐らくは甫庵が前後の事情に稽へて咨に假作したるものなるべし。 今度佐々内藏助企謀叛、以多勢雖成到于能州奧郡可令發向之行、引違推寄於末森城取圍、既及難儀之處、奧村助右衞門尉盡粉骨之働、堅固ニ持靜之處、其方早速爲後詰被出勢、佐々内頭分之首十二到來、當家無二之忠義、大慶甚深之至候。恐々謹言。 羽柴筑前守 天正十二年[甲申]九月十九日秀吉在判 前田又左衞門尉殿 參 〔甫庵太閤記〕