是より後成政の勢大に蹙まり、獨り南進北出の容易ならざるのみならず、若し手を束ねて天運に委ぬる時は、中越の膏腴久しからずしてその領有たらざるべきに至れり。これ豈術策に富める成政の堪へ得る所ならんや。成政乃ちこの窮境より脱せんが爲に、十二月立山山麓を經て信濃に出で、遠江に赴きて家康に會し、彼をして秀吉を倒さしめて、利家を孤立無援の地に置き、以て自家の對前田策を有利に發展せしめんとせり。 天正十二年霜月下旬、深雪をいとはず、さら〱越とて嶮難無双の山路に行迷ひぬ。是は何の地をさして思召立給ふぞやと、從ひし士共問ひしかば、遠州へこえ行家康へ相看申、來春は羽柴筑前守を攻亡し、信雄卿可被達御本意謀を盡し可及歸國也。兼て汝等にしらせ度は思ひけめど、於賀州無沙汰樣にとふかく忍び出しに依で、左もなかりし也。富山を出てより十日許は前田知まじ。ほの聞てより決定の間五日。かくて陣用意五六日はあらんや。上下廿日には歸城すべし。其間は病と號し、伽之者五六人、かよひの小姓十人許には、起請をかゝせ此義を知せつゝ、毎日膳をもすへ常々有やうにこしらへをきしなり。(中略)越中外(富)山の城を十一月廿三日に出で、十二月朔日午の刻に上の諏訪に着しなり。是より家康へ飛脚を以て申達しければ、駿州府中まで乘馬五十疋・傳馬百疋迎ひとして被仰付、宿等に至るまで一として不如意なる事露もなきやうに、徳川殿さたし給ひしに依て、雪中の勞苦を忘れつゝ、十二月四日遠州濱松の城に至り、家康卿へ對面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被達御本意後樣に相議し、翌朝打立清洲の城に至て御禮申上、これかれ評議を盡し則令請暇、又深雪に山路をたどり〱越中に立歸りけり。 〔甫庵太閤記〕 甫庵太閤記はかくの如く、成政が濱松に至れるを十二月四日とすれども、家忠日記には『十二月丁卯、越中の佐々内藏助濱松へこし候。吉良信雄樣御鷹野に御座候。御禮申候。むかいにて振舞候。』といへば、是を正しとすべく、丁卯は即ち二十五日なり。然るに越登賀三州志は、甫庵太閤記が霜月下旬に於いて成政の立山越を爲せりと記したるを難じ、その季節に在りては到底之を敢行し得ざるべきを指摘し、且つ成政と家康との妥協成立を以て、彼が末森城の攻撃を決意したる前提なりと解したるが故に、十一月は字形の相似たるにより七月を誤れるなりと斷じたれども、その説固より何等確實の根據あるにあらず。甫庵太閤記が、成政の通過したりとする沙羅沙羅越は、果して今の何れの路線なるかを明らかにせずといへども、『十二月佐々陸奧守濱松へ下。云々。さて頓て歸國、上下信州を通。』と當代記にも記したれば、成政の東海道に出でたることの實に十二月に在りて、往復共に信州路を取りし事實に就きては之を是認せざるべからず。