成政と家康との會見が、假令十二月四日に在りたりとするも、將た同月二十五日に在りたりとするも、そは毫も成政の目的を貫徹すると否とに關する所あらざりき。何となれば、是より先信雄は、十一月十一日秀吉と單獨媾和を終りたるが故に、家康のみ尚舊交を復するに至らざりしといへども、彼が秀吉を敵とせざるべからざる根本的理由の既に消滅したるを以てなり。若し又十二月二十五日に在りとせば、家康もその子於義丸を秀吉の義子たらしめんが爲、大阪に向かひて出發せしめたる後に屬せり。いづれにしても成政の冒險的旅行は、之によりて何等の効果を齎すことなかりしなり。 神君聞召給ひ、遠路大雪を分てよくこそ來られたれ。我秀吉と聊怨なし。信雄の願聊もだし難く、我命を忘れて加勢せしと雖も、はや信雄・秀吉和睦ありし上は、我より軍を起し、秀吉と干支を動かすべきにあらず。其方思立事あらば隨分加勢すべしと仰ければ、成政忝と謝し奉る。 〔改正參河風土記〕