こは老獪なる家康としては、頗る正直なる告白なりと言はざるべからず。若し夫れ成政にして何等か畫策する所あらば、我は一擧手一投足の勞を惜しまじといふに至りては、固より當面の外交的辭令たりしに過ぎざるなり。抑成政が焦眉の急とする所は、前田利家の地位を顚覆して、己起死回生の幸運を捕捉するに在り。而も家康にして既に秀吉と親善の關係を回復せし上は、秀吉の信頼する利家に對して、成政よしや『思ひ立つ事』ありとせんも、爭で家康の援助を求むることを得んや。特に知らず、彼れ果して眞に『忝と謝し奉』りしや否やを。 利家の地位は、こゝに至りて全く安全地帶に入れり。假令その時期の遲きにもせよ、早きにもせよ、秀吉が一たび鞭を擧げて北國に入るの日は、即ち利家開運の日なりしなり。然りといへども秀吉より之を見れば、成政の如きは嚢中の窮鼠のみ。利家あり、長秀ありて之を監視す、毫も憂ふべき所以なし。是を以て彼は先づ紀伊を攻め、四國を屠り、然る後徐に利家年來の厚誼に報ぜんとは欲したりき。而してこの間利家と成政とは、常に小爭鬪を繰返したりといへども、之を要するに何等大局に關する變化を生ぜしことあらず。 天正十三年二月、北國の雪僅かに融解せんとす。此の時に當りて利家の老臣村井長頼は、再び越中を侵略せんことを請へり。利家乃ち衆を集めて戰を議せしに、長頼の臣小林大納言及び屋後太右衞門は、もと越中の産にしてその地理に精しかりしを以て、礪波郡蓮沼を燒夷するの計を上れり。大納言は舊の彌六左衞門にして、當時法師武者たりしなり。利家亦彼等の献策を妙なりとし、二十四日長頼を先鋒として敵地に侵入せしめ、利家・利長父子は國境に止りて聲援に備ふ。長頼乃ち部兵千餘を率ゐ、戌刻を以て蓮沼方面に潛行し、翌拂曉を以て火を民家に放ちたる後、敵と戰ひて三百餘人を斫り、將に兵を戢めんとせり。時に成政の配下、松根の城代杉山主計、城端の將河地才右衞門等、蓮沼の前田軍に襲はれたるを聞き、直に來援して長頼の軍に追跡せしかば、長頼は踵を旋して自ら鎗を合はせ、家臣吉川平太・江見藤十郎・阿波賀藤八郎・小林大納言・屋後太右衞門・大窪小五郎等も亦奮鬪しつゝ退却せり。時に利家は本營に在りて戰報を待ちしが、衆の捷ちて歸るを見て大に喜び、後二十八日に至り、長頼を召して祿二千石を加へ、脇刺と陣羽織とを與へ、翌日利長も亦感状を授け、次いで秀吉は報を得て、同じく賞詞を長頼に贈る。而して吉川平太・江見藤十郎・屋後太右衞門・小林大納言も、亦各利家より黄金二十兩・小袖二を得たり。 今度蓮之間(蓮沼)表其方望申に付而、敵地へ押入候儀無心元存侯得共、此度を我等運命次第と存知、無是非申付候處、無異儀彼地を令放火、敵勢に而慕付根へ共、其方自身鎗を突、不初今手柄之段不可勝計候、雖爲少分爲加増、加州石川河北・能州の内を以四千俵令扶助訖。全可知行所如件。 天正十三 二月二十八日利家在判 村井又兵衞殿 〔村井家文書〕 ○ 今度蓮之間表燒はらひ可申旨、貴所望付而利家被仰候は、其方は別而秘藏之者之義と云、殊きぶね之城ぎはと云、其上夜中之儀に候へば、引取儀を無心元思召候へ共、目賀田又右衞門・丹羽源十郎鳥越を聞おぢに明退候を無念に被思召此度越中へ中入して放火仕儀尤と被仰付候處、彼地を不殘燒はらひ、敵あまたしたい付根處、其方自身鎗を突、味方あしをもみださず、遠路之所しづ〱と被引取候段、誠手柄共今に不初儀不可勝計候。利家御滿足大方ならず候。次に其方寄騎吉川平太・江見藤十郎などそばにて手柄仕候由、其方口次第に御はうみ可有由利家御意候。尚面を以て可申候。謹言。 孫四郎 二月二十九日(天正十三年)利勝(利長前名)在判 村井又兵衞殿 〔村井家文書〕 ○ 今度蓮之間、其方望に付て、利家被致許容處に、早速彼表を燒働、其上敵大勢にて慕ひ候へ共、自身無比類鎗をつぎ、誠に感事に候。猶期面之時候。恐々謹言。 三月二日(天正十三年)秀吉在判 村井又兵衞え 〔金澤藩源流記〕 村井長頼畫像侯爵前田利爲氏藏 村井長頼画像