北國に入れる秀吉の軍は、いつもながら大仕掛なるものなりき。彼は鷄卵を摧くにも大石を用ふるを辭せず、必ず萬全を期するものにして、後援なく同盟なき成政に對する場合にも、尚その慣用手段たる位押しを忘却することなかりしかば、織田信雄・織田信包・丹羽長重・細川忠興・金森長近・蜂屋頼隆・宮部繼潤・池田輝政・稻葉典通・森長一・蒲生氏郷・木村重茲・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豐・加藤光泰・九鬼嘉隆等、必要以上の精鋭を揃へて綺羅星の觀あらしめき。されば成政は之に對して茫然自失するの外あらざりしなるべく、かの大村由己が四國御發向並北國御動座事と題したる書中、成政防禦の状を叙して『越中以國界爲總構、引出山材切倒大木成柵、始倶利伽羅峠左右、鳥越・竹橋・小原・松根此外取出城三十六也。根城木舟・森山・益山・富山等十餘箇所、以上國中東西之間、拵五十餘箇所防之。』といへるが如き勇敢なる擧動は、決して有り得べきにあらず。豐鑑に『佐々氏敵大勢なれば所々にして叶はじ、勢をひとつにして戰をなさんといひて、もとしおきし加賀・越中の境とり出の城どもをやぶりて、みなと(富)山一所にぞ集りける。』といへるは、窮鼠反つて猫を噛むの態度として、幾分信ずべきものありといへども、それすら眞に虚勢たるを免れず、降意固より胸中に足りたりしなり。 十八日秀吉進んで松任驛に至りしに、利家は之を路傍に迎へたりき。利家この時黄羅紗の陣羽織を被、七個の立物を附せる兜を戴く。秀吉馬を下りて利家に近づき、手を執りて郊迎の勞を慰し、且つその行粧の美なるを稱せり。既にして秀吉の金澤城に入るに及び、利家の歡待至らざるなく、饗宴最も善美を盡せり。