十九日利家は前軍に將として發し、二十日倶利伽羅に陣し、二十二日安養坊坂に至り、以て富山城に肉迫す。是に於いて秀吉は呉服山上に布營し、中越廣漠の平野を一眸の中に收めしに、成政は堅く城中に隱れ、而して秀吉も亦未だ兵を放たず、その刄に衂ぬることなくして功果の大ならんことを欲したりき。成政諸將を集めて戰を議す。佐々平左衞門等曰く、今秀吉巨萬の兵を以て我に臨む。假令抗するも蟷螂の斧を上げて龍車に向かふが如けんのみ。如かず降を容れて天壽を全くし給はんにはと。成政之を然りとし、密かに使を織田信雄の營に遣はして曰く、若し秀吉にして、我に許すに越中の一部を以てせば、永くこれに臣事するを辭せざるべしと。成政は先に信雄の爲に織田氏の勢力恢復を策したるものなり。是を以て信雄今は之を棄つるに忍びず、土方勘兵衞雄久等を秀吉の本營に致して、成政の爲に請ふ所あらしめき。秀吉、成政の表裏常に計られざるを以て、固く執りて動かず。而して雄久等の之を請ふこと益切なるに及び、乃ち遂に一歩を讓り、その之を許すと許さゞると、一に利家の意に隨ひて決せんと言へり。時に利家座に在り、秀吉に謂ひて曰く、成政の武勇術策、共に固より我が怖るゝ所にあらず。唯今日の事は公の命のまゝならんのみと。秀吉、利家の雅量を賞して成政の罪を赦し、新川一郡を以てその領邑に充つ。二十九日成政の罪を秀吉に謝せんとするや、從者僅かに十數人を伴ひて利家の營前を過ぎる。利家即ち士卒に命じて笑聲を發せしめしに、成政差耻の色を露して去れり。利家、成政と相乖離するごと多年、而して哄笑一番を以て積憤に代ふ。利家天稟の率直簡朴、概ねこの類なり。 初め秀吉の北征するや、藤懸三藏等亦赴きて力を致さんと請へり。秀吉乃ち閏八月朔日を以て書を三藏等に與へ、越中の事既に平定せるを以て、彼等が來援の要なきを示せり。その書中、成政征討の軍状を述べて甚だ詳密なり。 廿五日至于龜山歸陣仕之由に候。此中各苦勞共に候。仍當表事、越中倶利伽羅峠に馬を立、先勢東は立山うばだう・つるぎの山の麓迄令放火候處に、木船・守山・増山以下所々敗北候に付て、内藏助令降參、信雄を相頼、外(富)山之居城を相渡、當陣所へ走入候條、命之義令赦免候。即今日外山城へ可相移被思召、芹谷野まで被越候。於外山越後長尾可出仕之由に候條、於彼地請可有之候。右之分候間、太刀も刀も不入躰候間可心安候。今五三日令在陣、國中諸城之物主相付、置目等申付、頓而可納馬候。然ば此方へ可相越之由申候へ共、早人數も不入候間無用候。慥可得其意候也。 閏八月朔日(天正十三年)朱印(秀吉) 藤懸三藏どの 田中小十郎どの 石川小七郎どの 高田小五郎どの 伊藤牛之助どの 谷兵助どの 〔北徴遺文〕