成政の降伏以後に於ける秀吉の行動は、大村由己の記する所によりて極めて明瞭なり。即ち閏八月朔日彼は陣を芹谷野に轉じ、二日富山城を巡視し、三日には呉服山に於ける利家の茗宴に請待せられ、四日五日國中を綏撫してその掟を定むといへり。是に至りて六日軍を旋して礪波山に向かひ、七日金澤城に入りて、利家の一族利久・安勝・秀繼及び重臣村井長頼・不破勝光・長連龍・高畠定吉・中川光重等に物を賜ふこと各差ありき。この日、秀吉又書を裁してこふ及び本願寺に送れり。こふとは北政所の侍女なるべく、秀吉が夫人に與ふる書状を侍女の宛名としたるなり。 廿五日廿九日の御ふみ、一どに見なく。このおもての事、くらのすけ、色々なげき候まゝ、くにをめしあげ、いのち迄たすけ、あしよわどもまでも、こと〲く昨日はや京までさしのぼせ候。かんにんぶんすこしとらせ候。と山のしろをも、こと〲くわらせ候。ゑつちうをば、又ざへもん(利家)につかはし候。はやひまをあけ候まゝ、とやまよりきのふとなみ山までむまをおさめ候。けふはかなざわへこし申なく。ゑちぜんきたのしやうには四五日とうりう候て、くにのおきめなど申つけ候て、十四日ごろには大阪へかへり候はんまゝ、こゝろやすかるべく候。又きあひもよく候。ふみをばめち(マヽ)ととろく候まゝ、かゝせ候てこしなく。めでたくさし。 壬月七日(天正十三年)朱印 こふひで吉 〔北徴遺文〕 ○ 此表爲見廻使札、殊道服二・鐵炮合藥貳百斤贈賜候。祝著之至候。仍越中儀、倶利伽羅峠ニ立馬、先勢東は立山うば堂・つるぎの山麓迄、悉令放火候處、木船・守山・増山以下、所々城共敗北付而、藏助令降參、信雄相頼、外(富)山之居城相渡、墨衣躰に而、當陣へ走入候之條、命之儀令赦免、則外山へ寄馬、諸城物主相付、國々置目等申付候。藏介足弱以下大阪へ差上、彼外山令破却隙明候之條、今日加州迄納馬候。寔太刀も刀も不入躰に而、任一篇候間可御心易候。頓令上洛候之條、猶其節可申承候。恐々謹言。 壬八月七日(天正十三年) 秀吉印 本願寺殿 〔本願寺文書〕