本願寺門主顯如が、使者を金澤に發して秀吉に物を贈らしめたるは、新門主教如の閏八月朔日北國下向の途に就き、白ら彼に大聖寺に謁したると共に、その好感を得て地方門徒の保護を得んと欲せしが爲なりしや論なし。之と同時に朝廷が、九日男山八幡宮に秀吉の北國凶徒征討に就きて祈念する所あらしめたるは、等しく彼の意を迎ふるにありたりといへども、頗る六菖十菊の感なき能はざるなり。 閏八月朔日新門樣北國御陣御見舞として俄御下向、越前さかひ大聖寺にて秀吉へ御禮御申ありて、それより越前・加賀兩國御一見、御門徒馳走不及申、それも秀吉より御異見なる故也。 〔貝塚御座所日記〕 秀吉が金澤を去りし日の何日なりしやは、諸説區々にして之を辨ずる能はず。越登賀三州志に定めて十六日に在りとするも、その非なることは、秀吉が蜂須賀彦右衞門・黒田官兵衞二人に與へたる書翰に、十四日越前府中に於いて彼等の書に接せりといひ、又小早川左衞門佐に宛てたるものには、十七日阪本迄納馬したりといへるによりて之を知るべし。 世本或はいふ。秀吉の金澤を去るに臨み、利家の第三女摩阿姫を得て之を伴へり。摩阿姫は先に利家が勝家に質とせしもの。天正十一年勝家の滅亡に際し、その乳母擾亂の隙を窺ひ、共に遁れ歸りたるなり。摩阿姫今年齡十四、後秀吉之を側室とす。加賀殿と稱せられしもの即ち是なりと。然れども秀吉が十三年閏八月摩阿姫を携へ歸りたりとするものは、左記交書の存在によりて疑なき能はず。思ふにこは秀吉侍女の發したるものにして、その『さだめてきやう中けんぶつにひまいり云々』といふは、摩阿姫が初めて上洛せしを秀吉の大坂に在りて待望に堪へざるの意を現すものとすべく、五月廿七日の日附は恐らくは十四年に在りと考ふべし。加賀殿多疾、初め聚落第の天守に在りしが、後利家の聚落邸又は伏見邸に住し、慶長三年三月秀吉の醍醐の觀櫻にも尚從ひしが、次いで暇を得、又大納言萬里小路充房に嫁し、更に離別して金澤に歸り、十九年十月十三日享年三十四を以て歿す。 かへす〲、ちくぜん内へ事づてのよし可申候。 一日はぎりの文給候。さだめてきやう中けんぶつにひまいり候についてとおぼしめし候へば、うらみとも存不申候。さし。 五月廿七日でんかさま まあめの(めのとカ) 〔保坂氏文書〕