信長・秀吉の生涯が、戰爭を以て始り、戰爭を以て終りたる如く、之に隨從せる利家も、亦同一の運命を免るゝ能はざりき。佐々成政の秀吉に降を容れしとき、利家の齡正に四十八。曾て百戰の功を積みて沈勇の氣備り、今や世故に慣れて思慮の周密を加へ、之に加ふるに天稟の誠實厚愨を以てす。海内の諸將百を以て數ふべきも、友として頼むに足り、敵として恐るべきもの、誰か利家の右に出づるものあらんや。秀吉攻城野戰の事ある毎に、必ず利家を憑みてその隻腕とせしもの實に之に因るなり。 天正十四年十二月秀吉太政大臣に任ぜられ、氏を豐臣と賜はり、又鎭西の雄島津義久を征するの勅許を得たるを以て、諸將に令して明年二月兵を率ゐて大阪に會せしめき。是に於いて利家は、尾山城に前田安勝、七尾城に前田良繼及び高畠定吉、守山に前田長種、増山に中川光重を置きて留守せしめ、その子利長と共に京師に赴き、十五年二月二十日利長は兵三千を率ゐて先づ九州征討の途に上れり。利家亦從はんと請ひしも、秀吉は之を許さず、留りて禁闕守衞の重任に當らしめき。既にして秀吉の軍進みて九州に入りしに、沿道皆風を望みて歸順せしが、獨り秋月種實の臣熊谷久重・芥田六兵衞等は、豐前國巖石城を固守して抗敵せり。利長乃ち四月朔日蒲生氏郷と共に之を攻撃し、自ら搦手方面に向かふ。利長の將岡島一吉・長連龍・奧村永福・山崎長徳等、直に進みて外城を陷れしかば、敵は退きて本丸を死守せり。因りて横山長知・陰山三右衞門・大平宗左衞門・松平康定等火を放ちて突貫し、大手より入れる蒲生氏の軍に策應せしに、久重は士卒數十人と共に自刎して城遂に陷れり。秀吉乃ち増田長盛を遣はして、感状を利長に授く。次いで五月七日島津義久降を容れしを以て、七月諸軍京師に凱旋し、利長は八月七日を以て麾下の士の功を論じ賞を行へり。