利家の參加したる最後の役は征明の大戰なり。抑秀吉が大明併呑の壯擧を企圖し、對馬を通じて朝鮮との間に談判を開始せしめしより、徒らに數年を費したりといへども、その計畫の全く具體化するに至りしは、天正十九年正月臨海の諸國に命じて船舶・水手を準備せしめたる時に始り、同年四月八日を以て之を利家に報じ、八月以降急轉直下の勢を以てその進捗を見たりしなり。而してこゝに秀吉が四月八日に征明の事を利家に報じたりといふは、左記の手書あるに由る。蓋しこの書何れの年何の件に關するやを明示せざるも、利家が筑前守となりたるは天正十三年九月にして、その後參與したる戰は小田原役及び征明の役のみとし、前者は二月に於いて利家の出陣を見たるを以て、必ず後者に關するものたるを推定すべし。書中の『かゞねいや八』は加々江彌八郎重望にして、『はんくわいちくぜん』は筑前守利家の勇武を樊噲に擬したるなり。 や八くわしく可申候。ぢ(自)筆そめ候。 かゞねいや八下候。ない〱申あはせ候事、そう〱うちたち可申候。又此たびも、そのほうさきだて候はゞつゆのまたるべく候。そのほうをひだりのうでとし、わかやぎ可申候。さし。 四月八日(天正十九年)秀吉判 はんくわい ちくぜん殿 〔前田家文書〕 樊噲筑前宛豐臣秀吉書翰侯爵前田利爲氏藏 樊噲筑前宛豊臣秀吉書翰