征明の大事業に參加したる利家は、彼が秀吉に對する最後の奉公として、その子利長と共に全力を擧げて軍務に鞅掌せり。加賀藩史稾に從へば、文祿元年(天正二十年)正月七日、是より先前田利長は、秀吉の命を受けて北陸に留守たりしが、此に至りてその麾下に命じ、日を刻して征明軍に從はしめ、二十九日には封内より銅及び金鈖を購ひ、以て秀吉の乘艦を作る材料に供し、二月十八日加賀・能登の舵師に命じ、敦賀の倉廩に貯藏したる米穀を豫め九州に輸送せしめ、同月下旬を以て自ら京師に入る。而して三月朔、秀吉先鋒の將士京師より發せしかば、利家も亦十六日を以て歩騎八千を率ゐて途に就き、四月中旬肥前の名護屋に至りて營を構へしに、その地徳川家康の居る所と相對せり。是に於いて利家・家康二人配下の士卒虎威を假りて相讓らず、僕隸の徒に至るまでこれに倣ひ、遂に飮料水の事に因りて大に相爭ふ。秀吉之を聞き、爲に兩將の不和を釀さんことを憂へ、利家に命じてその陣地を變ぜしむといへり。 名護屋に於て、家康公御陣所の前に、清水の涌き流れ候所有之。其清水の側に、小屋を懸て番人を附置、外々の陣所より水汲に來り候者は、番人に相斷て水を汲申ごとく有乏候所、或時日でりに付水の涌出少成候故、外より來る水汲共には汲せ不申所に、加賀大納言利家の陣所より水汲共七人許來りて水を汲取候に付、番人共罷出制し候へ共是を用ひず、却て雜言に及び候故、番人共堪忍不仕、物言に罷成候に付、番人仲間の小人共和加り、汲置たる水をもこぼし捨、一雫にても汲せ候事不罷成と申て、双方の仲間共つかみ合候所へ、加賀の家中の下々共馳集り、只今迄も汲來り候水の儀なれば、是非汲取可申と申、番人共の方よりは汲せまじきど申に付て、喧嘩に成候内に、加州方より上下大勢にて加勢仕由御陣中へも相聞えければ、何事とは不知我も〱と馳出けるに、加賀勢も追々に來重り、程なく双方の人數三千許に成、鑓・長刀のさやをはづし、刀・脇差を拔かたげて、既に勝負に臨むべき樣子に相見候所、御陣所の内より本多中務・榊原式部・松平和泉、右三人に御使番御目付中相交り走り出、双方の中へ割入、喧嘩を制止致さるゝ。中にも本多忠勝は澁手拭を鉢卷に致され、榊原康政は大肌ぬぎにて走り廻られ候と也。時に御物頭には服部半藏・渡邊忠右衞門兩人、御預の鐵炮同心・與力共に召連、喧嘩の場所へは不行して、加州利家の陣所近く押詰、組の與力、同心を立ならべ罷在候に付、其節の物頭中の儀も我も〱と驅付候故、名護屋中の騷動と罷成。利家方よりも、歴々と見えたる面々早馬にて懸付、此方の御家老同前に喧嘩を制し止め候體に相見え候が、程なく鎭り、双方共に退き別れ、無事に相濟候と也。其節家康公には、御陣所の亭に於て喧嘩の始終を御覽被遊御座被成候へ共、とかくの御意も無御座候所に、事濟候已後榊原康政御前へ被川候へば、其方當陣見舞として秀忠より遙々被差越候に付、馳走の爲めづらしき喧嘩をさせて見せたれば、大きに骨折たるなど有仰て御笑ひ被遊候よし。右水論の次第、太閤の聞にも達し候哉、夫より程なく利家へは陣所がへ被申渡と也。 〔落穗集〕