五月秀吉、利家をして朝鮮に入り、諸軍を統率せしめんとし、議略定まりしが、偶明主大擧して朝鮮に來援せんとすとの報ありしかば、秀吉は自ら赴き戰はんと欲したりき。利家乃ち家康と共に之を諫止し、一朝秀吉の身に不祥の事あらば天下至大の憂なりとなし、秀吉にして強ひて渡海せざるべからずとせば、二人命を奉じてこれに代らんと請ひしに、秀吉の意稍解け、六月二日令を軍中に布き、更めて明年三日を以て出發することゝせり。然るに七月に至りて、秀吉の生母大政所の病篤かりしを以て、秀吉は軍事を利家及び家康に委し、二十二日急遽歸洛の途に就きしが、大政所は恰もこの日を以て逝去したりき。次いで九月七日秀吉は前議を變じ、利家に征明都督たることを命じ、日を刻して海に航せしめんとせり。利家乃ち軍糧を充實せんが爲、十九日金澤の計吏今井彦右衞門・能登の三輪藤兵衞等に牒して、嚴に今年の租を徴せしむ。既にして明軍又退却せんとすとの報に接せしかば、秀吉は二十一日に至りて利家が都督の職を解き、その渡航の事亦從ひて罷めり。 急与申付候。皆々代官所年貢諸成物事、當年は少も無未進樣に可申付候。いづれも諸侍國をへだて令長陣、其上高麗・唐までも可越と覺悟有之事候。少の代官にかゝり、國に有ながら百姓前過分の未進をさせ、其年の算用をさへ仕かね候段、沙汰之限比興第一候。早々中勘定を仕、五郎兵(前田安勝)まで可上置候。歸陣候節遂惣算用、未進をさせ候代官は、自今以後のため、又申遣候事共違背の間、急与可成敗候。後日之爲屆申遣もの也。 天正廿 九月十九日利家印 今井彦右衞門どの 三輪藤兵へどの 大井久兵衞どの 〔拾遺温故雜帖〕 ○ 今度は唐人數萬騎人數出申候由付而、先夜者貴所罷越、我等名代として、唐四百餘州を切したがへ可申候旨望被申候儀、誠に手柄之被申分、不初于今儀と乍申大慶申候。然所に彼唐人佗言申、人數ども引入申候由注進申候間、此度者先唐入は指延可被申候。何事も何事も以面上可申渡候。其心得可有之候。恐々かしく。 九月廿一日大かう在判 羽柴筑前守どの 參 〔拾遺温故雜帖〕