十月六日秀吉は、再び名護屋の行臺に赴かんとして京師を發せり。時に利長は京に在りしが、十四日命じて能登の巨木を伐採せしめ、以て秀吉の乘艦製造の材に供せしめき。これ當時秀吉が、再び來年三月を以て渡海して征明の事に從はんと聲言したるが爲なり。隨ひて秀吉の側室にして利家の女たりし加賀殿に與へたる書簡の十二月廿六日附なるものあるも、亦恐らくはこの年(文祿元)に係くべきが如し。而して利家は、秀吉にして渡海を實行せば、己も亦當然隨從せざるべからずとなし、文祿二年正月三日書を三輪藤兵衞に致し、金澤なる前田安勝を助けて、急に兵艦五隻に要する船具及び水夫を封内に求めて發遣すべきを命じ、併せて在國の胥吏、常に事を處すること緩慢に失するを譴責せり。 追而從太閤樣、大あたけ丸被仰付候。然者船木之事、於奧能登相尋可被下置候。定而かくし可申候間、成其心得入念馳走尤候。以上。 爲在洛見舞書状、殊菱喰壹・鱈五到來候。遠路入情之段、別而喜悦此事候。其元無異儀之旨尤候。委細尚瓜生源左衞門可申候。謹言。 十月十四日(文祿元年)利長印 三輪藤兵衞殿 〔三輪家傳書〕 ○ かへす〲はやく〱と御ふく給候。めでたくうれしく候。はるはいよ〱申うけたまはり候べく候。 正月の御ふく二かさね給候。ゆく久しくとゆわい入候。はるはこうらいへこして、こと〲く申つけ、やがてがいぢん可申候まゝ、心やすく候べく候。ゆへいり候てからいよ〱そくさいのよし、なによりまんぞくに候。このつる、たかのつるにて候まゝ、一ハ進之候。せうくわん候べく候。まご四郎(前田利政)はゝもそくさいのよし、めでたく候。めでたくかしく。 十二月廿六日 かゞ殿大かう(秀吉) 返事 〔男爵前田家文書〕 ○ 尚々かこの事、能登・かゞ・越中三ヶ國へ可申付候。以上。 來三月御渡海相定に付て、船など調として、大阪へ逸兵へ(衞)・小右衞門を遣候。然ば種善坊(山崎宗俊)・其方兩人、早々大阪へ越候て、用の事共相調可越候。此書付參着次第、はや其地を出候はでは用立間敷候。其心得專用候。 一、つな・いかり・かこの事。船五そうの分わり付可給由、五郎兵へ一書にて遣候。喜右衞門・大井久兵衞など、早々尾山へ越候而五郎兵へ令談合、一刻も急わり合可上候。二月のすへには、大阪よりなごやへ越候はでは用に不立事候間、よるひる共なく可申付候。今度程のせんどは、後さき又もあるまじく候に、在所に有ながら此方之儀をば皆々由斷と相見え候。命ながらへ歸朝候はゞ如何可有候哉。ちと情に入尤に候。謹言。 正月三日(文祿二年)利家印 三輪藤兵衞殿 〔拾遺温故雜帖〕 加賀殿宛豐臣秀吉書翰男爵前田直行氏藏 加賀殿宛豊臣秀吉書翰