是月利家命を受けて、蒲生氏郷と共に第二軍の將となり、秀吉の親征も亦將に實行せられんとする形勢に在りしが、時局急轉し、明軍は屢利を失ひたるを以て、將に使節を遣はして和を媾ぜんとすとの報を得たりしかば、利家は更めて媾和使接待の任に當るべきを命ぜられたり。秀吉又大に觀兵式を行ひ、我が軍の武備充實せるを示して、媾和使を威服せしめんとするの意あり。利家乃ち刀槍を裝飾せんが爲、能登及び加賀の留守に命じて金銀箔を調製せしめき。 尚々、うちため候はくの事、有次第此方へ可上候。はく屋に人を付置可申付候。さし。 態申遣候。仍大明國勅使來三月罷越付而、我等所ニ御やどの事被仰付候。就其日木國武者揃をも被成、御みせ可有との事候。金子三枚か五枚分、はくをうたせ可申候。五月中にこと〲く出來候樣に可申付候。加州にても銀はくの事申付候。唯今まで打ため候はく、何ほど候哉是又可申上候。尚長兵へ(衞)かたより可申候也。 二月七日(文祿二年)ちくぜん印(利家) 三輪藤兵へ殿 〔續汲古北徴録〕 ○ 尚々、最前こしらへ候ながへ百本に、はくをおかせ可申候。金はくの事藤兵へ(衞)かたへ申遣候而、請取おかせ可申候。やり共出來候はゞ、さいくの者共何ものぼせ可申候。百えだの長刀さやなどをも、びやくだんしたぢにこしらへ可申候。み(身)などをもとがせ可申候。 態申造候。仍來三月大明國勅使就羅越、勅使宿をも可被仰付由候。武者揃を被成、御みせ可有之との事候。就夫金はくの事は能州へ申遺候。其元にはく屋有次第に、銀はく五枚分か十枚分うたせ可申候。五月中に出來候樣に、かたく可申付候、爲其態申遣候也。 二月七日(文祿二年)ちくぜん印(利家) 出羽守(篠原一孝)殿 種善坊(山崎宗俊) 〔續汲古北徴録〕 徐一貫筆蹟鹿島郡永光寺藏 徐一貫筆蹟