幾くもなく秀吉の終焉將に近からんとするや、彼はその後圖に關する書策頗る多端を極め、大老・奉行の輩に對して誓書を徴すると同時に、又種々の遺言を爲して筆記せしめ、之によりて家康は伏見に在りて政治を輔け、利家は大阪に在りて秀頼の傅たるべしと定め、更に利家捐舘の後に在りては、利長をして利家に代らしむべしとせり。秀吉が如何に重きを前田氏に置けるかを見るべし。されば秀吉薨去の後、利家が益誠意を盡くして幼主を輔佐するに至れること言を待たず。今利家の手書中、その在國の吏に命じ、秀頼の爲に形貌特に矮少なる馬を求めて献らしめたるものあり。この書何れの年に繋るものなりやを明らかにせずといへども、古來慶長三年のものなるべしと推定せらる。果して然らば、利家が幼主を誘掖して良武將たらしめんが爲、頗る心志を勞したるの跡を察し得べきなり。 太閤樣被成御煩候内に被爲仰置候覺(節略) 一、大納言(利家)殿は、おさなどもだちより律義を被成御存知候故、秀頼樣おもりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて度々御意被成候事。 一、羽柴肥前(利長)殿事は、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替秀頼樣御守に被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身に替り肝を煎り可申と被仰出、則中納言になされ、橋立の御壺・吉光の御脇指被下、役儀をも拾萬石被成御許候事。 一、何たる儀も内府・大納言殿へ得其意、其次第相究候へと被爲御意候事。 一、大阪は秀頼樣被爲御座候間、大納言殿御座候て總廻御肝煎候へと被成御意候。御城御番之儀は、爲皆々相勤候ヘと被仰山候。大納言殿、天主迄も御上り候はんと被仰候者、無氣遣上可申由被成御意候事。 右一書之通、年寄衆其外御そば御座候御女房衆達御聞被成候。以上。 〔淺野文書〕 ○ 態申遣候。仍而御ひろい(秀頼)樣進上申候、いかにも尺はづれの馬を尋出し、早々可上候。侍衆在所かた不殘念入尋出し、早々可上候。急用事候間、扨申遣候。不可有油斷候。最前申遣追鳥かりの事、雪次第に可申付候也。 十二月廿九日(慶長三年カ)利家印 藤兵(三輪)へ殿 久兵(大井)へ殿 〔拾遺温故雜帖〕