翌慶長四年正月利家、秀吉の遺命に遵ひ、秀頼を奉じて淀より大阪城に移らんとせしに、秀頼の生母淀君は家康と共にその期を延べんと欲したりき。利家怒りて曰く、太閤新たに薨じ、卿等夙くその命に背かんとするかと。淀君等爭ふこと能はず、遂に大阪に移り、大老・奉行皆之に從へり。是の月利家病む。時に石田三成・増田長盛二人、利家と家康とを離間せんと計り、家康が私に福島正則・伊達政宗と婚を定めたるを知り、秀吉の遺命に反したりとの罪を鳴らして之を利家に愬へ、又毛利輝元の邸に會して膺懲の師を起さんと議せしが、家康の過を謝するに及び、事一たび鎭靜に歸せり。而もこの後流言屢起り、人々恟々たるものありしかば、細川忠興は之を憂へて、密かに利長に説く所ありき。曰く、方今卿の嚴君大納言にして内府と釁あるは、三成等の讒あるを以てなり。思ふに三成は大納言の威を假りて内府を除き、内府にして既に殪るゝ時は、更に弓を大納言に彎き、以て己の奸を成さんと欲するのみと。利長乃ち家康と相反目するの不利なるを悟り、忠興の周旋によりて自ら家康を訪ひ、之が結果として二月利家以下大老・奉行等皆家康と誓書を交換し、次いで同月二十九日利家は病を力めて、家康を伏見の邸に訪へり。この日利家の大阪を發して伏見に至るや、家康は舟を浮べて來り迎へしが、先づ舘に還りて供帳し、以て利家の至るを待てり。利家亦舟を棄てゝ轎に乘じ、加藤清正・細川忠興・淺野幸長等徒歩して之に扈從す。家康、利家を遇すること甚だ厚し。利家大に喜び、家康に謂つて曰く、公の居舘湫隘にして不虞に備ふるに足らず、宜しく向島の地に徒りて姦邪の非望を絶つべきなりと。家康因りて之に從ふ。時人相慶して曰く、二公の意既に解けたり、是より天下復靜平なるを得べしと。是の日、家康書を裁して大阪なる藤堂高虎に與へ、彼が利家と輯睦せることを報ぜり。 尚々かわるぎは候はず候。此よし左衞門(福島正則)大夫殿可申候。以上。 又申、すこしもよく候はゞ御上待入候。 御書状披見候。大納言(利家)殿御越、じゆこん(入魂)にて候、御心安候べく候。貴樣しもつけに候よし、御やうぜう可有之候。申度儀おゝく御いり候まゝ、すこしもよく候はゞ御上待入候。恐々謹言。 二月廿九日(慶長四年)大(内府家康) 藤□佐(藤堂佐渡守高虎) 〔藤堂文書〕