三月八日家康大阪に赴きて、利家の前訪に報ず。利家病を以て之を燕室に延き、永訣の情を演べて曰く、『是がはや御暇乞、死まする。肥前事頼まする。』[利家夜話]と。家康之を慰籍して曰く、公の恢復將に遠きにあらざらんとす。余公の頗る庖丁に長ずるを知る。異日再び來るの日、公それ手腕を振ひて余を饗せよと。既にして宴を設け、家康を書院に饗す。この日家康の未だ至らざるや、利家の邸頗る警戒を嚴にし、番所に士卒を増し、門樓に弓矢を伏せしめしが、暫くして利家・利長・利政・村井長頼・奧村永福の五人相議して、俄かに之を撤したりき。その議する所の何事なりしやは、今之を知る能はず。或はいふ、家康の前田邸に臨むや、利家利長を召し問ひて曰く、事既に整へりやと。利長その何の意なるかを解する能はず、備に供設を怠らざることを告げたりき。既にして家康辭去す。利家刀を蓐中に探り、之を利長に示して曰く、先に事の整へりやと問ひしものは則ち是なり。噫我瞑せば、天下は將に家康に歸せんとす。但余は汝を家康に囑せり。彼といへども亦汝に饗して害を加ふる所なかるべしと。この説利家夜話一本の記する所にして、その意蓋し豐臣氏の危急に際して、黄泉に就かざるべからざりし利家の境遇に同情するにあらんも、果して此の如くなりとせば、利家は初め家康に害を加へんと欲し、その行はれざるを知るに及びて嗣子の保護を哀求したるものにして、手段の陋劣實に唾棄すべく、之を眞摯にして樸實なる利家平生の行爲に徴して毫も信を措くこと能はず。思ふに利家の家康と會せし時、彼は己を以て他を推し、家康が主家を顚覆せんとの非望を抱けりとは夢寐にだに思はず、赤心を披瀝して秀頼今後の誘掖輔導を託し、並びに己が嗣子の薫陶愛撫を請ひ、家康の之を快諾せる状あるを見て感涙に咽びたりしなるべし。家康も亦深く鋒〓を藏めて之を露さず、數日の後書を致して慇懃に利家の病状を問ひたりき。 態以使者申入候。御煩爲御見廻參候處、御氣相能御座候而、緩々与申承令滿足候。殊種々御馳走祝着存候。不及申候へ共、彌無御油斷御養生專一候。猶期後音候條令省略候。恐々謹言。 三月十三日(慶長四年)家康在判 大納言(利家)殿 御宿所 〔越中氷見郡國田氏文書〕 ○ 二三日者御氣相如何、無御心元存候。先日は肥前守(利長)殿御出、御心靜申承、本意存候。尚期後音候條令省略候。恐々謹言。 三月十九日家康在判 大納言殿 御宿所 〔武家事紀〕