閏三月朔日に至りて利家の病益篤し。夫人乃ち之に經帷子を著せんことを勸む。利家莞爾として曰く、『おれが經帷子は今はの時見可申候。うるさの經帷子や、おれはいらぬ、御身跡からかぶりやれ。』[利家夜話]と。或はいふ、この時利家語りけらく、予亂世に生まれて劒戟を事とし、人の生命を斷つこと幾何なるを知らず。然りといへども未だ嘗て無名の師に從ひしことあらざるなり。閻王若し余をして地獄に墮在せしめば、予は先に冥途に赴きし麾下の將卒を率ゐて、一撃を之に加へんのみ。獨り恨む、故太閤の嗣君幼沖にして父を喪ひ、家康と予とを頼みて江戸爺・加賀爺と呼べり。然るに嗣君今予の死せるを聞かば、必ず大に落膽するあらんことをと。此等の談、果して幾何の程度に於いて眞相を傳へたるかを知らずといへども、彼が最期に臨みて、尚毫も赳々たる武夫の體度を失はず、故君の寄託を瞬時も忘るゝことなかりしは明らかなり。 二日利家輿に乘じて山里の露路に逍遙せしに、その顏色快豁尚平生に於けるが如く、左右と雜談を交へ、近臣數輩に謁を許したりしが、翌三日朝五ツ時溘焉として薨ぜり。享年六十二。是に於いて遺命により、遺骸を長櫃に藏め、四日喪を秘して金澤に下しゝが、事坊間に傳はるに及び、京阪の士庶皆震駭し、夙くも事後の風雲將に暗澹たるべきを豫想するものあり。二十四日後陽成天皇詔して利家に從一位を贈り給ひ、次いで四月八日之を城南野田山に葬る。法諡を高徳院桃雲淨見といふは、利家の曾て僧大透圭徐に參禪せし時、桃花の夭々たるを見て頓悟したるに因るといふ。 天正三年乙亥。利家公歸陣之後。一日公入山禪話次。寳圓開山大透和尚。擧靈雲桃花公案。以徴詰公。公不能對。透曰。此事非從人得。唯公念々不捨。久々純熟。時節到來。自然到不疑地。公其勉之。從此公疑情頓發。靜座工夫。打成一片得失是非。心猿意馬自然氷消。明年天正四丙子暮春。公迎透祖府城齋焉。時庭前桃花紅白爭妍。透以如意指之曰。靈雲聻。公於是恍然默契。乃曰。和尚今日得不疑地。透曰。作麼生是不疑地。公驀竪拳頭。透曰。還見靈雲麼。公即一掌透而出。透呵々大笑。此時透祖。授公菩薩戒血脉並法號。曰高徳院殿桃雲淨見大居士。 〔北華文集〕 ○ 高得院殿引導當山二世和尚(寳圓寺象山徐芸) 黄金妙相眞靈像。安置玉樓寳殿上。汗馬戰功治率土。子孫萬代世威昌。 泰惟高徳院殿桃雲淨見大居士。武門英雄。官國棟梁。以蓋代功高譽日下顯。以沙場戰勇名乾坤揚。進官位則成公卿天上交。望藝智則越天下儒者方。加之早晨成道參禪室。晩哺了悟詣伸場。常著涅槃岸(岸之次一字脱歟)越三界。行歩菩提林坐斷四彊。一機一境對風流景。一句一言乘本分卿。上不覺清淨源脈。下不厭苦海險路。進前逢著伴明歴々。退後相見汝露堂々。龍生龍子鳳孕鳳兒。千草生翠万木重枝。桃雲淨見大居士在定中點頭。雖然與麼即今全提一句。如何指宣去。 一夜宿花裡。通体牡丹香。 〔寳圓寺文書〕 前田利家畫像金澤市寳圓寺藏 前田利家画像