利家の薨後、その夫人は落飾して芳春院と號し、後慶長五年伏見より江戸に往き、徳川氏に質となる。夫人素より紫野大徳寺なる春屋宗園の學徳を慕ひ、その教を受くる所ありしが、こゝに至りて益佛門に歸依すること篤く、十二年宗園に謀りて新たに伽藍を大徳寺の塔頭に興造せしめ、宗園乃ち法弟王室宗珀を薦めてこれが開山たらしめき。是を以て十四年宗珀は、大檀那たる夫人のために畫像を作らしめ、裝潢を加へて之を寺に傳へき。その圖、長身豐肉、法衣を纏ひ頭巾を戴き、曲彔に憑りて珠數を手にし、意氣凜然として丈夫の面目あり。宗園これに偈を加へ、而して夫人は記するに和歌二首を以てせり。十五年五月伽藍工を竣へ、號して芳春院といふ。同年夫人、能登の總持寺の山門を建立す。初め天正中利家の能登を領するや、寺田四百石を之に寄進せしが、利家薨去の翌年夫人はその塔頭に一寺を起し、利家及び自己の位牌を置き、寺領三十石を嚫してその追福を祈らしめき。この寺亦芳春院と稱せらる。是に至りて明年利家の十三回忌辰に當るを以て、又山門を建てゝ寺觀を莊嚴にせるなり。能登名跡志によれば、山門の棟札に『當山門。仰翼[加賀大納言利家卿御内所東之御方芳春院殿被成御建立者也]以觀音慈眼。壽福増延。子孫繁榮。成就佛法僧之功徳。依羅漢聖應除災與樂。百事吉祥。修證過現當菩提。旹慶長十五庚戌年暮春如意吉辰。』と記し、又『奉行越前住三輪藤兵衞尉藤原朝臣吉宗。同越前住大井久兵衞尉源朝臣直泰。下奉行田中仁兵衞尉重政。五十嵐角兵衞尉吉連。棟梁藤原朝臣森五郎左衞門尉清定。脇棟梁藤原朝臣櫛比源兵衞尉重次。藤原朝臣名村甚左衞門尉正藤。此下番匠壹萬三千七百六十人。』と書せられたりといへり。こゝに三輪藤兵衞・大井久兵衞を越前住とせるは、その生國を指しゝなるべし。之を以て總持寺に於いても、亦夫人の壽影を描きて之を傳ふ。その賛は塔頭芳春院の開山象山徐芸の書する所なり。この圖、傳に狩野探幽の筆といへども、徐芸は元和五年に寂し、探幽は慶長十七年に生まる。徐芸曷んぞ探幽の書に題せんや。その誤たること必せり。明治三十八年四月内務省之を國寳に指定す。夫人は慶長十九年六月徳川氏の諒解を得て金澤に歸り、元和三年七月十六日七十一歳を以て逝去す。利常因りて又夫人の菩提を弔はんが爲に、總持寺の佛殿・法堂以下を興隆せり。夫人名は松子、信長の弓頭篠原主計の女なり。主計死して後、その母之を携へて高畠直吉に再醮す。之を以て或は篠原氏なりとせられ、或は高畠氏なりと傳へらる。 國寳芳春院畫像模本侯爵前田利爲氏藏(原圖神奈川縣總持寺藏) 国宝芳春院画像模本 蓮江寺宛芳春院夫人書翰鳳至郡蓮江寺藏 蓮江寺宛芳春院夫人書翰