慶長四年五月廿九日利長襲封の賀宴を開かんと欲して、諸侯を伏見の邸に招く。家康も亦豫め之に列するを諾せしが、期に至り遽かに病と稱して之を辭せり。この事増田長盛が利長の異圖あるを家康に告げたるに因ると傳へらるゝも、家康の機會を捉ふるに敏なる、若し長盛の密告なかりしとするも、何等かの目的の爲にこの饗宴を利用することを忘れざりしなるべし。顧みれば利家はその終焉に先だちて、子孫の保護を家康に囑し、而して家康は之を快諾したりき。然るに今や嗣子襲封の賀宴に當り、當日の正賓たる彼にして突如之を避けて席に臨まざりしもの、豈曩日の約束を重んずるものゝ所爲ならんや。是より後利長は大に疑惧の念を懷き、その社稷を維持せんが爲には、利家の遺誡をすら恪守する能はず、故太閤の恩義を思ふ以前先づ内府の意志を忖度せざるべからざるに至れり。 この年八月、家康使を利長に遣はし、之に告げしめて曰く、卿は父君の病中より久しく伏見に在りしもの、その困苦察するに堪へたり。されば一たび封に就きて身心を安んじ、治務を行ひ、然る後更に上國に出づるも亦可ならずや。幼君秀頼の保護に關しては、太閤恩顧の臣僚多くその左右に侍せり。毫も卿の意を煩はすを要せざるべしと。利長は利家の遺誡に、その薨後三年を經るにあらざれば國に歸るべからずといへるを以て、大に之に從ふを遲疑したりしが、家康の慫慂も亦忽諸に附する能はざりしかば、當時大阪に在りし生母芳春院に諮りたりき。芳春院乃ち老臣を留後たらしめて家康の勸説に從ふも可なるべしとせるを以て、利長遂に之を容れ、村井長頼を伏見邸に置き、奧村永福を芳春院の護衞たらしめ、而して己は八月二十八日を以て歸國の途に就けり。