然るに九月六日に至り、家康は遽かに伏見を出でゝ大阪に徙りしを以て、村井長頼もまた同じくその地に赴き、奧村永福と共に芳春院を庇護し、傍ら家康の行動を監視せり。是より先、豐臣氏の奉行石田三成・増田長盛・長束正家等相謀り、流言を放ちて曰く、前田利長封に就きたる後、城郭を修築し、武具を整備し、以て不軌を圖らんとすと。次いで七日に至り長盛・正家の二人は、利長が計を淺野長政・大野治長及び土方雄久に授け、重陽の佳辰に際して家康の登營せんとするを待ち之を害せしめんとすとのことを家康に報じたりき。長政の子幸長は利長の妹與米姫の所天、雄久は芳春院の甥にして利長の從弟なり。家康が利長を苦しむべき第二の機會は到れり。彼即ち九日の登營拜賀を廢し、次いで十月八日淺野長政をその領邑甲斐の府中に蟄居を命じ、土方雄久を常陸の太田に、大野沿長を下總の結城に配し、又大に兵を發して利長を伐たんと議し、十三日には夙くも加賀小松の城主丹羽長重に命ずるに先鋒の任を以てせり。時に利長は越中に在りしが、備前侯宇喜多秀家の急使至りて、家康の將に討伐の師を發せんとすることを報じたりき。秀家は利長の異母妹豪姫の夫なり。利長直に金澤に歸り、老臣を會して當面の虚置を議せり。思ふにこの時前田氏は、雄藩の面目を維持せんが爲、勝敗を度外視して一快戰を試むべきか。若しくは社稷の安全を期して、屈服の辱を忍ぶべきか。二者その一を擇ばざるべからざる大難關に遭遇したるものにして、利長以下譜代老臣の苦心實に慘澹たるものありしならんも、遂に衆議の歸する所は、横山長知及び高山長房を派して利長の決して異心を抱かざるを辯疏せしむるにありき。