利長の使者は直に大阪に登りたりしが、十一月に至り家康は初めて長知を延見せり。家康その左右に老臣を列せしめ、威儀極めて儼然たるものあり。長知座に就き、一揖して利長の書を上る。家康之を坐側に置き、勵聲して利長の不信を詰る。長知凝視して驚かず、先づその齎しゝ手簡を覗んことを求む。家康之を讀みて曰く、果して書中に言ふ所の如くならば、利長は宜しく誓書を致すべし、汝盍んぞ之を携へざると。封ヘて曰く、我が侯忠順の誓書は、曾て之を前關白に納れたり。如何ぞ之を再びするの要あらんや。且つ夫曩日の誓書にして既に故紙に歸せりといはゞ、則ち如今之を上るも亦他日の故紙たらんのみ。我が侯不敏なりといへども、一たび約して而して後復言を食むことを爲さゞるなりと。家康語塞り、緘默して言はず。少時の後色を和らげて曰く、果して然らば宜しく利長の母芳春院を質として、その異圖なきを明らかにすべしと。對へて曰く、恐らくは之を諾し得べし。然りといへども此くの如きは、實に我が侯の重大問題にして、余の直に辨じ得る所にあらずと。則ち辭して歸る。その後議容易に協はず、長知往返すること三次に及ぶ。 慶長五年正月、利長は別に使を江戸に發し、書を秀忠に送りて、去年以後の矛盾に就きて分疏し、秀忠も亦答書を與へて之を慰籍したりき。三月利長、横山長知及び有賀直政を大阪に遣り、家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院を徳川氏に質たらしめ、之に代ふるに秀忠の女を利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する大事なるが故に、敢へて關東に赴かんことを諾せり。是を以て五月二十日芳春院は村井長頼を從へて伏見を發し、六月六日江戸に入る。是より前田氏の死命全く徳川氏に制せらる。諸侯の妻子を證人として江戸に置くの例、亦是を以て權輿となす。 當時家康は屢上杉景勝の西上を促したりしが、景勝は石田三成等と共に兵を擧げ、家康を前後挾撃せんとの約已に成れるを以て、毫も之に從はんとはせざりき。家康乃ち兵を會津に進めて景勝を膺懲せんと欲し、六月朔日先づ軍令を定めて、利長を津川口の先鋒たらしめ、越後の國主堀秀治・本庄城主村上義明・新發田城主溝口秀勝をして之に屬せしめき。七月二日家康は江戸に至り、次いで山形の城主最上義光を利長の麾下に屬せしむ。之に對して大阪に在りては、この月十七日前田玄以・増田長盛・長束正家等、家康が專横の罪を鳴らし、諸侯に檄して彼を討たんことを勸め、同日毛利輝元・宇喜多秀家も亦書を利長等に與へて、秀頼擁護の爲に家康征討の軍に加らんことを請へり。 態申入候。去年已來内府被背御置目、上卷誓紙被違之悉之働、從年寄衆可被申入候。殊更奉行年寄一人宛被相果候而は、秀頼樣爭可被取立候哉。其段連々存詰、今度各申談及鉾楯候。御手前も定而可爲御同前候。此節秀頼樣へ可有御馳走段不及申候歟。御返事待入候。恐々謹言。 安藝中納言 七月十七日(慶長五年)輝元在判 備前中納言 秀家在判 羽柴備前(前田利長)守殿 御宿所 〔武家事紀〕