而も利長は、斷然西軍と絶ちて東軍に屬したりき。論者或は利長が豐臣氏の舊恩を忘れて、徳川氏を助けたるを難ずるものあり。然りといへども、この時家康の秀頼に對ずる反形未だ露れず。家康の敵とするものは、秀頼を擁して權力を擅にせんとする三成その他の諸將たるが如き觀あり。而して三成は利家の最も憎惡せし所の者たるのみならず、今や利長の母芳春院の既に江戸に質たるあり。諸種の點より見て、利長の家康に屬したるは極めて當然の成行とすべく、假令玄以等が北陸七國の領主を以て利長に許せりといへども、何等誘惑の功を奏せざりしこと勿論なり。されば利長の西軍に抗したるは、秀頼に背けるにあらずして、三成一派の行動に反對せるものとして之を解せざるべからず。而も後に大阪の二役に、前田利常が事實上弓を秀頼に彎きしものは、これ天下の大勢にして獨前田氏をのみ責むべきにあらざるなり。